はるかぜ
02いつもと違う朝
目が覚めた時、嗅ぎ慣れない匂いがした。
うっすらと視界を開ける。明るくなり始めた外の日差しが差し込み、見慣れない部屋を照らす。
空気に漂う生臭い香りの元は知っている。それはいい。
それとは別のものが鼻先に掠める。
「インク？」
思ったより声が掠れていた。
ふと顔を上げて部屋を見渡すと、部屋を囲むように本棚やクローゼットが並んでいる。
よく見るとベッドヘッドの後ろにも本棚があった。就寝中に地震が起きれば間違いなく雪崩を起こして圧死しそうな容赦のない量だ。
「すごい」
ここは凝縮された本の王国だった。
本など本屋か図書館ぐらいでしか見ないので、見慣れない他人の部屋をじっと眺めた。
しかしハッと我に返る。こうしてはいられない。
早く身支度を整えないと思ったところで、やっと規則正しく聞こえてくる寝息に気が付いた。
ベッドの中心の辺りで身体を丸めるようにして眠っている人の姿がある。
散らばった髪は漆黒、まだ丸みを帯びている頬があどけない。
途端に身体が軋み、身体に汗が湧き上がるのを感じた。
どうしてこの人がここにいるんだろう。
ずっと片思いをしている人がなんで。
「・・・・・・・・・・・・」
寝惚けていた頭に血が巡り始め、昨夜の出来事が走馬灯のように駆け巡り始めた。
動悸が激しくなり、羞恥で顔に血が集まるのを感じる。
「いかん。恥ずかしくて死ねるかもしれない」
襲ったのか。初対面だと思っている相手を。
脈があると思った途端に抑えていた理性が焼き切れて。
赤くなっていた顔から血の気がひいていくのが分かった。
ちょっと待て。襲ったのは分かった。部屋に漂う雰囲気からも、ベッド傍に落ちている衣服類からも推測できる。
しかしもしや無理強いしたのか。強姦したのか。
なんとなく自分がしたことは覚えているが、詳細は記憶に残っていない。
記憶を残す余力など残さず、全力で襲いかかったのか。
馬鹿か。俺は馬鹿でしかないのか。
とりあえずざっとベッドの上を見て、血痕が落ちていないことを確認する。
しかし問題は身体。たとえこの場に血が落ちてなくても、彼の身体に傷でもできたら俺は。
「なんで貧血みたいな顔をしているんだい」
聞こえてきた声に顔を上げる。どんどん重力を持ち始める推測に自然と頭が下がっていたらしい。
眠気の抜け切れない瞳で、摂理はこちらを見上げていた。
言葉が喉元に詰まってでてこなかった。酸素を求める魚のように唇を震わせていると、勘違いした摂理が頭を撫でてくれた。
「どした。昨日ので疲れたのかい。じゃあもう少し寝たらいいんじゃないかな。まだ朝の五時だけど」
優しげな声に背を押されて、震える唇をなんとか言葉を紡ぐ。
「か、身体は大丈夫ですか」
「全然」
撃沈した。
摂理はそれはそれは無慈悲に、否定した。
「キミ変な体勢とかふつーに求めてくるし、舐める癖と噛み癖があるみたいだね。裏筋に八重歯が掠めた時、肝が冷えたよ本当」
ベッドの上で自然と土下座をしていた。しかし相手は気づいてないらしく話を続ける。
「でもよかったよー。いきなり本番にならなくて。これで無理やりにでも突っ込まれたら悪いけど、急所蹴り上げていたと思うよ。手加減なしで」
「え」
きこえた言葉に身体を起こす。
「本番はなかったんですか」
「なにキミ記憶ないの。失礼だなぁ。まあいいけど。本番は嫌だって言ったらきいてはくれたね。でも舐めるのはやめてくれなかったけどね。全身隅々までどうもありがとうございます」
笑顔がすごく怖かったが、安堵で身体の力が抜けた。よかった、性犯罪までは及んでいなかったようだ。
こちらを見つめてる摂理がにやにやと笑っていた。
思っていたより、こんな意地悪い顔もするようだ。なかなか魅力的だけど。
「安心した？」
「はい。よかった。強姦でもしてしまったのかと」
「あっはっは。そんなことしてたらベランダから突き落としてたよ、よかったねー」
案外強からしい。肝が冷えてハハハっと乾いた笑みが毀れてしまった。
自分よりも一回りほど小さな手が手招いた。
呼ばれるまま従えばすっぽりと温かい胸元に導かれた。驚いて身体が震えてしまった。
「龍彦、大切な話があるんだ」
返事もできず、ただ身体で聞いている体勢を伝えることしかできなかった。
耳元で笑い声が毀れる。
「僕、まだ君からなんの告白もきいていないんだけど」
落ちてきた本が脳天に直撃したらこんな衝撃を受けるかもしれない。
言葉を失い硬直していると、下の身体は喜悦に震えていた。
「まあ改めて聞かなくてもわかるんだけどねぇ」
「・・・わかるんですか」
「だって昨晩ずーとちゅっちゅしていて、これであなたのことなんも思ってませんー。とか言われたどこのツンデレだよ」
「つんでれ？」
「ああ、最近の日本文化をあまりご存じではないみたいだね。覚えておくよ」
「はあ」
なでなでとこちらの頭を撫でながら、摂理はとてもご機嫌そうだった。
「僕は君が気にいったみたいだよ、龍彦。せっかくだから、僕と付き合ってみない」
「・・・順序が逆転しましたことを、深くお詫び申し上げます」
「ああ、まあいいよ。若いんだし。若いって素晴らしいって昨日、しみじみと感動してたから」
「せつりさん、あまり俺と歳かわりませんよね？」
「二十歳過ぎるとこう気持ちが歳をとるっていうか、十代と違うわけよ若人よ」
そんな若年寄りみたいことを言って、彼は俺の髪に触れていた。
言葉にできなかった思いを込めてキスを送ると、彼は何故か困ったような顔で笑った。
「どうしました」
「いや、情熱的だなと思って」
「あなたと違うと？」
「言っとくけど僕、結構歳とってるから、その辺りではあまり期待しないでね」
「はあ」
彼はよくわからないことを言って、ずっと背を撫で続けていた。甘い人ではあると思うんだけど。
「さあ今日最初の問題は、この家に何も食べ物がなく、周りにもモーニングを出してくれるような店がないってところだ。どうすればいいと思う」
「でもここ大学徒歩区域ないでしょう？ だったらスーパーかコンビニがあるでしょう」
「ちょっと遠いのよ」
「徒歩何分」
「最寄コンビニ徒歩８分」
「ものぐさですねぇ」
呆れた声でいうとせつりは笑った。
朝から話し相手がいるっていいね、と。
彼はとても嬉しそうに笑った。