あいなきあした
口惜しいが俺はその輪には加われずに、開店前の店にスコールをかき分けかき分け、ずぶ濡れで店までたどり着いた。買い物袋をアキラに渡し、二階の倉庫に雨をしたたらせながら着替えに上がる。
「ん?」
完全にアキラにハメられた…。夕方、いつもアキラと一緒にまかないを食べに来るヒロミが、一糸まとわぬ姿で濡れた髪を乱暴に、店のごわごわしたタオルでかき混ぜていた。ヒロミは、俺に気がついても恥じるでもなくつかつかとにじり寄り、耳元で、
「そういうの、ボクネンジンって言うんだよね…。」
女にはもう何年も触れてこなかっただろうか…俺はその姿や全ての所作がまるではじめてのような感覚で、いつのまにか、食い入るように強く貪っていた…。
永遠のような一瞬を重ね合わせ、俺はなすがまま、なされるがままに果てた・・・。
ヒロミは獲物を捕えた女郎蜘蛛のような表情で俺を見下ろし、
「あとで、ね。」
俺の着替えを着込み、なぜかアキラが二人分用意したらしい、いささか無骨すぎるまかないを持って、夕立あがりの輝くアスファルトの波へと消えた。
向こう3ヶ月の資金しかないという安易な目論見で始めた俺の店は、予想を上回る勢いで売り上げを伸ばし、アルバイトのアキラを雇う余裕まで出来て今に至る。
何より俺がターゲットとしていたサラリーマンや男子学生が、わしわしと麺を食らい満足して帰っていく姿は、まさに俺の望んでいた光景であり、少なからずそれに満足していた。夜の営業にはアキラの協力が欲しかったが、頑として首を縦に振らない。
俺は事を終えてうまそうに煙をくゆらすヒロミに、
「お前、自由になる金も必要だろう?アキラの代わりに夜働いてみるか?」
「ヤだね。服も買ってくれるし、CDも下でツケで買えるし、別に困ってないよ。」
確かに困っていないなら、いたずらに働いて気疲れする必要もないが、あわよくば二人の生活がかみ合えばという欲目が、頭をもたげていたのは確かだ…。
そんなオッサンの願いを受けたのか、ある日、ヒロミは、
「五千円…。」
と腕を差し出し、その金でスーパーの袋を持ち帰ると、黙って厨房に入り、麺に使っている粉をふるいにかけ、生地のようなものを作り、焼豚用に使っているサラマンダーを使い、パイ生地のようなものを仕上げた。いつものけだるそうな雰囲気とは違い、ヒロミはてきぱきと段取りをつけて作業をしていく。焼いた生地には液状にのばしてブレンドしたチーズを流し込み、冷蔵庫へと放り込む。俺が仕込みを終える頃には、店には似つかわしくない、こ洒落たチーズケーキをふるまってくれた。
それは、俺の店の粗めの粉で焼いただけに、濃いめ濃度で仕上げられたのチーズの層に負けない存在感のある、漢らしい、凛々しい逸品と言えた。
添えられたフレーバーティーは、女性が煎れたらしい繊細な香りで、肩の力が抜けるくつろぎを感じさせるものだった。なにより、早く麺打ちのために導入したかった浄水器を入れる口実ともなった。
ヒロミにはきちんとした狙いがあったらしく、仕込み中の1時間早くに店を開け、最近は随分と増えたアキラの出待ちの女子達相手にデザートセット(ケーキと紅茶)を売り始めた。黙々と作業しているとはいえ、アキラの顔が見放題なわけだから、ファンとしては口実に店内に入れるのは願ったり叶ったりなのだろう。
そういうファン心理を考慮して、30分入替えの2回転営業の形態にしたようで、カウンター6席とテーブル2席、8分の1カットで2ホールだけ焼いたケーキは、毎日必ず売り切れた。確かに粉を共有出来ることで仕入れのメリットはあるのだが、毎回チーズなど、他の材料費が意外にかさむので、業者に言ってその仕入れもまとめた。
材料費は店から出して、売上げはまるまる渡すので、部屋の下のCD屋のツケも必要無くなった。
好きでやっているんだろうが、時折「めんどくせえ」と嘆きながらも毎日ケーキを嬉々として作るさまは、俺に少しだけ安堵感を与えた。が、やはりヒロミもアキラも夜の厨房の手伝いは頑強に断り続けた…。
そのくせヒロミは自分の店が楽しいらしく、手の込んだ和紙に筆でティータイムのメニューをしたためた。その見事な筆裁きと豪放磊落なその仕上がりは、素人目にも芸術的な高みをを感じさせるものだった。
もちろん、ワープロで仕上げただけの味気のないうちのメニュー表も、なかば強制的に同じように書かせた。この無軌道ではすっぱな小娘のどこからこの清冽な書が生まれるのか…仮に神という者がいるのなら、その気まぐれに天に唾を吐きかけてやりたいほどだ!
アキラ目当てのロリータやらゴスロリやらの客が、仕込み前に集まってお茶を飲み、入れ替わりにサラリーマンと学生がわしわしと麺を食う、奇怪な店となったことは、いささか不本意だったが、奴がどう思っていようが、ヒロミと接点を持って生活していくことは、俺の揺らいでしまった命を根付かせる要因として、欠かせないよすがとなっていった。うっすらとでも絆が、太く、太くなっていくよう無意識に俺は願っていた。その願いは愛無き今日を、人生しか歩めなかったよるべなき者の、小さく光る希望でもあった。
麺打ちのひとときに聴く、ソフト・ロックが数少ない愉しみの一つだった俺は、契約条件である店の内装は変えないという約束に抵触しない程度に設置した、BOSEのWestBoroughのスピーカーから流れる、心地よい音色に身をゆだねて麺作りに励んでいた…しかし!アキラを雇い、ヒロミと暮らすようになってからは、スキを見てBOOWYだのGRAYだのがかけられる羽目にもなった。
俺にはロックが理解できない。何よりエレキギターの歪んだ音が気分を澱ませる…。全てをテレキャスターの音に変えて欲しいぐらいだ。
何につけロックでない事を望んでいるというのに、周りはバンギャ、助手はビジュアル系、果てにはパートナーはどす黒いバンギャときている。
部屋の下のCDショップのオヤジだけが心の友だが、以前はよく店に顔を出してくれたのに、店の空気の違いにどことなく足が遠くなり、ますます孤立無援の有様で、まるで店の「ぬし」と化したヒロミは(客のバンギャに「ヒロミさん」と呼ばれているにつけ、相当の武勇伝でもあるのだろう…)ビジュアル系のグラビアを切り抜いて、店の壁に貼り付けようとして、取っ組み合いのケンカにさえなった。
「そんなの関係ねーよ。アタシの店なんだから、内装をどうしようが勝手だろ!」
契約主はあくまで俺だし、なんでつけそばとラーメンを食すために、ロックが必要なのか?なすがままにされてじいさんが怒髪天を衝くことになったら、俺は明日から何をすればいいのか…。終わらない口論の果てに、ヒロミは壁は諦めて、別途タペストリーを用意してものものしいイケメン達のコラージュをせっせと貼り付けて、ご満悦の様子だった。
ますます孤立したのが、定期的にラーメンの味見にくるじいさんがヒロミのやり方に意外に好意的な事であった。例のチーズケーキをほおばるや、
「こんなハイカラなもん、めったに食わねえが、こいつはなかなかうめえじゃねえか。」
「若い頃、ロカビリーが流行ったもんだが、聴いてるヤツは不良だなんだと、騒がれたもんだぜ。好きにやんな!」