あいなきあした
ラーメンを志すものに寛容すぎるその名店は、条件だけでなく、俺の好みの味だったことも舵をとった大きな原因であった。滋味あふれる中に存在感の光る自家製麺のラーメン。甘酸っぱいつけダレで、冷たい麺がさくさく進む、つけそばを創出した偉大なオヤジは、誰もを惹きつける業界の顔であった。
守るべき者のない俺には、当然攻めるしか手は無かった。
程なく本店の門を叩き、ふくよかにわらう業界のオヤジは、熱意だけで修行待ちの何十人を一足飛びに、なぜか俺を受け入れてくれた。その寛容さ故に覇気のない弟子たちに憤慨することもあったが、俺はそのどうしようもない弟子以下の要領と器用さしか持ち合わせてはいなかった。
志の高さも、味にはなかなか反映されなかった。
俺はもとから自分の腕を信じていなかったから、全てをメモに取り、時間やタイミングを全て記録して、技術ではなく、知識として全てを写し取った…。
店の経営が安定し、アキラを雇ってから2ヶ月、どこで調べたのか、本人の言っていたとおり、仕込みの終わりに合わせ、アキラの出待ちをする女子達がちらほらと現れるようになったその頃、アキラど同様の風体をした優男が、女連れで現れた。
「アキラ、お前の知り合いなら早く上がってもいいぞ。」
「ケイジさん、あれオレの対バンっすよ。つるんだらすぐネットで騒がれるんで、パスでお願いしますよ。」
「おう、お前そんなに人気あんのか?確かに俺が見てもイケメンだが。」
「あー。人間演出っすよ。ケイジさんも若い時やってりゃあ女食い放題だったのに。」
アキラは俺のことをいつのまにか名前で呼んでいた。
「悪いけれど産まれながらの女難で、全部ババ引く自信あるぜ…。」
「オレらの追っかけなんて、全部ババみたいなもんで、家庭にも学校にも居場所がない奴らばっかし。でも、そんな女だから可愛いんですよ。米しょってくる女もいますしね…。そこまで貧しくねーっ…いや有難いな…。」
「おい、オッサンに分かったような事言うんじゃねえ。」
他愛のないやりとりをしているさなか、店外の優男とぱっとみはすっぱな女の怒号が響き渡る。
「てめえ!まだファック隊と寝てんのかよ!?アタシだけっつっただろ!このクズが!」
「大声だすなよ、ヒロミ。お前が本命なんだから…」
「本命とかそんなんじゃねえよ。付き合ったら一人に絞れよ、テメー!」
「言ったな…!お前こそ好きなメン端から食って、ライブいきゃ穴兄弟ばっかだろよ、この売女が!」
「それが悪いか、狙ったメンは必ず落とすのが勲章だろ!二度とギター弾けねえように、指ぶっつぶしてやるよ!」
女は絶叫すると、立てかけていたギターケースをつかみ、遠心力をめいっぱいにかけて優男の右脇に叩きつける。小さいながら歪んだ弦の音が打撃音とともに響く。
「どうせアタシが買ってやったモンだろ!ブッ壊そうとアタシの勝手だろ!」
ヒステリーが疾走してもう、とりとめもない。
さすがに見かねたのか、手を上げようとする優男の仲裁に入る。
「ヒサシ、マジになんなって。」
気持ちの抑えようのない優男は、アキラの制止を振り切って女の頬をはたく。
「女を殴ったね!消えろよ!消えろ!」
怒号が号泣に変わり、優男は手に負えないとばかりにきびすを返す。
「落ち着いて。誰か呼んで送らせるから。ほら、オレこの後ライブだし、見に来てもいいぜ。」
「好きなメンのライブにしか行かない主義でね。そう…ハクエイ連れて来てよ!アタシこの店でまっててやるからさ!」
「無茶言うな!マスターにも迷惑がかかんだろ、聞き分けのねえこと言うんじゃねえよ」
ひと悶着もふた悶着もついて、ついにはアキラが根を上げた…。
「ケイジさん、ライブ間に合わなくなるんで、終わったら迎えにくるっすよ。」
俺はこの店が好きだ。
くどいようだがサラリーマンと学生が腹いっぱい食える店だ。香水のニオイをプンプンさせて、爆音でヘッドフォンでロックを聴く…。俺の店にとって最も好まれざる類の客がこの女だった。
並んでいた客が騒動にケリがついてもそもそと店に入ってくると、所在なさそうに店の軒下でヘッドフォンから頭がおかしくならんのかと杞憂するほどの爆音をヘッドフォンから漏らしていたこの女は、突然俺の店に侵入し、カウンター横の調味料を並べてある普段使わないテーブルに堂々と腰掛け、開口一番、
「酒。」
と言いながらこちらをにらみつけた。
野郎どもがわしわしと麺をむさぼるさなか、ヒロミと呼ばれていた女は、アキラのツケだと勝手にぬかして、店のビールをあてに一時間ほどさめざめと泣いていたが、ケロリと泣き止むと、まわりで麺を食らう者達を見て、本当にうちの店に飯を食いに来ていたらしく、遂に一言、
「suica使えないの?」
「使えるわけないだろ。」
「腹減ったんだよ。」
「食券機あるだろ?」
「メン以外に使う金なんかねえんだよ!」
「うるさい女だな…。」
「なんかあるだろ?肉。アキラのツケでさ。」
もう1本ビールを出してきて勝手に飲むこの無茶苦茶な女に、俺はアキラが帰ってくるまでとこらえ、丹精込めて焼いた焼豚と、たこ糸で二つに割った褐色の味付け卵を添えて、黙らせんとばかりにテーブルに置いた。
良く見るとじいさんの店で置いてあったのでそのまま置いてあるキリンのラガーではなく、俺が好きなだけで、ほとんどビールなど出ないラーメン店で、仕事上がりに自分用に冷やしてあるモルツを2本とも勝手に抜いている…。今日の俺の分がこれで無くなってしまったではないか…。
「うめえな!これ。オッサン…」
グラス片手に能天気に上機嫌の女…。
「おっさんじゃねえよ、マスターだ。」
客のために焼いた焼豚を何皿も食らい、俺用のビールをすっかりたいらげたヒロミという女は、この空間の怨念を吸い上げて唸るような雰囲気から、すっかりただの酔っ払いと化した。
大虎が猫になるなら俺の焼豚も、さぞや本望だったということにしておこう。
あのつっけんどんな態度からは想像もつかない酔いっぷりで、この女に笑顔なんてあったのか?と言いたいほど、酔ったらピタッと飲むペースを下げる行儀の良さだった。
おかげで俺はいつもどおり茹であげた麺をザブザブと水にさらしてはシメて、それを百食分ほど繰り返して、スープの寸胴は空となり、暖簾を下げて、今日の営業を終えた。
サラリーマン相手の仕事だからと、終電明けを覚悟して、近くに引越しをしてまで構えたが、今のところは客の入りも良く、午後九時頃には閉店出来る調子だ。客のためには、そして儲けのためには仕込みを増やせばいいのだが、仕込を含めると百食売るのが今のところの限界ではなかろうかと、力加減が分かってきたところだ。これ以上やると、定休日の日曜日に俺が寝たきりになる。せめて休日が過ごせるぐらいは俺にもあってもいい自由だ。
皿を片付けてモップがけを終えると、鳴りもしない携帯電話がメールの着信を告げる。アキラからのメールだろう。なにより初期設定のランダムで吐き出されたメールアドレスにメールをしてくる相手などいないのだ。
(うちにいる女が勘ぐって厳しいんで、うちはダメみたいっす。オレの当てもとんでもない奴らばっかりなんで、なんなら店で一晩寝かしてやって下さい。スンマセン。)