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アガペー 〜あるAV女優へ〜 (後編)

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      *

「車に戻ります。雨になりますね」
 え……、雨? さっきまであんなに晴れてたのに。
「わかりました。ではお迎えにあがります」
 携帯の受話器を切り、運転席のシートを戻す。車から降りると空一面がいつの間にか不穏な雲に覆われていた。
 勇十赤の方に小走りで近づくと、彼も闇の中心でスッと立ち上がり白杖を静かに揺らし始めた。
 いつもどおり声はかけずに無言で見守る。勇十赤からも言葉が発せられることはない。
 彼が降ると言ったら必ず降る。やはり匂いから察するようだ。雨の香り。
 彼はちょうど車の位置でピタリと止まり、手探りでドアのハンドルを探し、後部座席にすべり込むとそのまま横たわってしまった。
 こうなるとまた待ちだ。運転席に乗り込みドアを閉める。車のエンジンもまだかけずに指示を待つ。
 バックミラーを横目で確認するが、横たわる勇十赤の姿は覗けなかった。

 風も少し出てきたようだ。波の音がさっきよりも荒く大きくなっている。 
 時折通る対向車のヘッドライトには飽きた。
 海沿いの国道、冷えきった車の中の暗闇に弧絶され、次第に激しくなる波の音に耳を煽られ、後部座席には横たわる盲目の男を乗せている。
 普通の仕事ではまず味わえない絶妙な精神的ハーモニーが生みだされる。奇怪なハーモニー。
 特殊な空間に気持ちは徐々に順応し、自然な流れで誘導される。
 すると何故だろう。何故だか不意に殺したくなる。
 勇十赤を、勇十赤の首でも絞めて。サクッと手早く。息の根を、止めたくなる。
 何の戸惑いも躊躇もなく。
 自問が生じる間髪も与えず。
 ただ自然に手を伸ばせばいい。
 勇十赤は最初に少しだけ呻き声を出すが、やがて受け入れるような形で観念し、大した抵抗もせずに静かに死んでいく。
 勇十赤の体から芯が抜けて崩れ落ちる。生命の糸が断ち切られる瞬間の感触というものを両手でしっかりと味わわせて頂く。
 これが相当な快感なんだ。そして、同種を殺すという絶対的な裁判に浸る。
 悪か正義か。
 彼はどうも死にたかったらしい。あまりにもあっさりで、あまりにも受け入れすぎている。