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題知らず ~もしくは、雑輩に依るmadrigale~

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 口篭もったような向坂の物言いに、続けざまに杯の酒を流し込もうとしていた手を鈴若は止め、ちらりと彼を見る。それまでは目が合うと、まっすぐ相手――つまり鈴若の視線を受け止めていた向坂だが、
「一緒に飲むのなら、見目良い方が楽しいのは道理だろう?」
と続けて月を見上げ、さりげなく視線を外した。
 鈴若が話の折々に挟みこむ誘いにも動じなかった向坂が、今夜初めて見せた『色』を含む表情。微かだが鈴若は見逃さない。
――これは案外、脈があるのかも知れない。
 向坂達がここを訪れた時、店先には喜助をはじめ数人の男衆がいた。皆、陰間上がりで姿形は悪くない者ばかり、鈴若が際立って容色が良いわけではない。むしろ夕顔を連れていたから見劣りしていたはずだ。そんな十把一絡げの鈴若を選んだのだから、少なからず向坂の好みに合ったと言うことだろう。一瞬彼が見せた瞳の中の『色』は、それを暗示している。
 それとわかったからには…と、鈴若は少し身体を向坂の方ににじり寄せた。胡坐を組みなおすと、片方の膝が彼の足に近づく。袴が邪魔をして目測に頼るしかなかったが、鈴若は膝小僧に彼の硬い太ももがあたるのを感じた。
 向坂の緊張が伝わる。しかし彼は身体をずらして避けるようなことはしなかった。
色子としての房事から遠ざかっていたので、それがないのは楽で良い。客のすることに文句を言える身分ではないが、この夜の長さはどうもいけない。
 向坂の干した杯に酒を注ぐ。酔いで身体が揺れた振りをして、彼の胸元へと傾げた。向坂が咄嗟に片方の腕で鈴若を抱きとめる。銚子は鈴若の手から離れ、零れた酒は瞬く間に畳の中に吸い込まれた。
 向坂の胸板は薄からず厚からず、袷から見える肌には張りがあった。ほんのりとする汗の匂いは若い。かつて鈴若の身体の上を通り過ぎて行った色事好きの旦那衆や僧侶達の誰とも違う、精悍な男の匂いだ。不覚にも、鈴若は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「これはとんだ粗相を」
 本当は艶を含んだ目で流し見ながら、ゆっくりと、そして思わせぶりに身体を離す算段だったが、素に戻ってしまった。
 向坂の胸に手を突っ張って鈴若が慌てて身を離そうとした時、目と目が合う。今度は、向坂は目を逸らさなかったし、鈴若を抱きとめた腕には、一層力がこもったようであった。
 鈴若の心の臓の鼓動が早くなる。自分の初心な反応に戸惑った。年齢の半分はこの商売に身をやつしていると言うのに、これではまるで初出しの夜ではないか。
 そんな戸惑いの中にあっても、どうやら向坂がその気になり始めていることには安堵した。このまま一挙に事に及んでしまえば、戸惑いも消えるだろう。鈴若は首を伸ばし、向坂の唇に触れた。
 その後はもう、聞こえるのは互いの口を吸い合う音のみだった。
 熱く荒々しい舌の動きを鈴若のそれが追う。夢中で絡め、その勢いに息をするのもままならない。それでも緩めることはなく貪りあう。順じて下肢の奥の昂りを感じた。
 体勢が崩れて、二人は畳の上に倒れ込む。向坂の手が鈴若の着流しの裾を割った。首元に埋められた彼の頭を、鈴若がかき抱く。この先に待つ愉悦を思うとたまらなかった。
 大きな手が鈴若の太ももを下から上へと滑ったその時――向坂はいきなり身体を離した。
 「向坂様」と言いかけた鈴若の口を向坂は手で塞ぎ、「しっ」ともう一方の人差し指をたてて自分の口にあてた。
 静寂の中、廊下の敷板の軋む音が微かに聞こえる。向坂は鈴若から離れた。床の間の刀掛けから刀を取り、柄に手をかける。
 軋みは部屋の前で止まった。向坂は左手の親指で鍔を押し上げる。次に何かが動く気配を感じたなら抜刀するだろう殺気を、鈴若は彼から感じた。
 開城し朝廷に政(まつりごと)を返還したとは言え、徳川将軍家が望んでしたことではない。現に憤懣やる方ない旧幕府側が、あちこちに集結し機会を狙っている。どこに刺客が紛れ込んでいてもおかしくなかった。
「待っておくんなせぇ」
 鈴若は身を起こした。乱れた着流しを手早く整えながら、向坂が止めるのも聞かず廊下に面した障子戸に近づき、そっと引き開けた。
「夕顔」
 はたしてそこには、半泣きの夕顔が座っていた。
「どうしたんだ、今頃。今夜は阿波田屋さんがお見えのはずだろう?」
 薄桃色の長襦袢一枚の夕顔を隠すようにして向坂に背を向け、鈴若は抑えた声で言った。
 夕顔は今夜、贔屓筋の紙問屋、阿波田屋の座敷のはずだった。阿波田屋が何らかの理由で来られなくなったのだとしても、解けて乱れた結髪から別の客がついているのだとわかる。よほどのことがないかぎり、夜明けまでは座敷を離れないのが決まりだ。それとも、客に何かあったのか。
「お客に何かあったのかい?」
 それとも何かひどいことをされたのかと続けて尋ねた。夕顔に大甘の阿波田屋が無体をするとは考えられないが、客が変わったのならそれもありうる。
 夕顔は両手で顔を覆って首を振った。鈴若は暗がりの中、部屋の行灯から漏れる明かりで目を凝らし、袖から見える夕顔の細い手首や、首を検分した。掴まれたり、縛られた跡はない。そっと顔を覆う手を外してやり、目元や口元も見る。涙の伝う跡以外、おかしなことはなかった。
 覗き込むかっこうの鈴若と目が合って、
「鈴若兄(あに)さがお客様を取ると聞いて、居ても立ってもおられんようになって…」
とやっとのことでそう言うと、夕顔はぽろぽろと涙を零し、鈴若の胸にしがみついた。
「お客を放って抜け出してきたってぇのか?」
 鈴若は慌てて引き剥がした。向坂に見られていることを憚ってではなく、夕顔が大事な客を一人にして来たことに驚いてである。
「阿波田屋様は、ようお休みです。そやから、そやから…」
 そこのところは売れっ子の自覚が働いたと見える。阿波田屋は気を放って寝こけると、半時は起きないので有名であった。ただしそれを繰り返し、明るくなるまで色子――夕顔を離さないことでも知られている。温厚な旦那ではあるが、寝間を抜け出して行った先が別の男の部屋だと知れば、いい気はしないだろう。
「お立ち。送って行くから」
 あれこれと考えている場合ではなかった。すぐに阿波田屋の寝間に戻さなければ、ごまかしもきかなくなる。
 そろりと振り返ると、向坂はすでに刀を元の場所に戻し、張り出しのところで静かに呑んでいる。「すぐ戻ります」と鈴若が言うと頷いたので、夕顔を伴って暗い廊下を進んだ。




 夕顔は今年が四年目、十五になる。上方の生まれであれば、たとえ大坂や紀州が出自であっても「京育ち」と偽る色子が多い中、夕顔は正真正銘、京生まれ京育ちであった。
 色が抜けるように白く、頬は紅を差さずともほんのりと塩梅良く桜色を帯びていた。涼しげな目元、形良い弓なりの眉、通った鼻筋を挟んで左右対称の面立ち。稀に見る美形だと評判の色子である。