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題知らず ~もしくは、雑輩に依るmadrigale~

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 客には逆らわないことにしている。言われた通り正座の足を崩し、胡坐を組んだ。裾が割れて白い脹脛が覗く。向坂の視線が一瞬そこに動いたのを、鈴若は見逃さなかった。注がれた杯の中身をぐいと飲み干すと、片膝を立てて座り直した。今度は太ももから股にかけての線が見えるはずだが、今度は向坂の目は動かない。何だか気恥ずかしくなり、さりげなく着物の裾を深く被せ、肘を乗せた。
 素っぴんで男衆姿のままの無防備な様は居心地が悪い。これは何とかしたかった。そのためにも寝間に入って、さっさと勤めを済まさなければ。最初はどんな格好をしていようと、房事の後はみな裸だ。いつものことと変わらない。
 向坂もまったくその気がないわけではないだろう。女色が良いなら遊郭に行くはず。話の種に江戸の陰間茶屋を訪なうにしても、興味がなければ来ようとは思うまい。
「ねぇ旦那、飲むのはいい加減にして、そろそろ寝間に入りませんか? ほどほどにしておかないと、立派な『持ちモノ』が役に立たなくなりますよ?」
 鈴若はゆっくり湯に浸かった。男の相手をするのは久しぶりで念入りの準備も必要だったし、一緒に過ごす時間は短いに越したことはなかったからだ。向坂はその間に銚子を数本、空けていた。鈴若はそれを指差す。
「そんつもいでここに来たわけじゃなか。おいのこたぁこんまま放っておいてくうっちゅうとあいがたか」
 低く深みある声で訛りがあると聞き取りにくい。鈴若は「え?」と聞き返した。向坂は「放っておいてくれて構わない」と、旗本や大名と変わらない武家ことばで言い直した。
――ああ、やっぱり。この男は育ちが良いんだ。
 地方藩士であっても中流以上の子女となれば、国の訛りは矯正されると聞く。連れの二人はあきらかに田舎者然としていたが、同格の口をきいていた。向坂は彼らに合わせているのかも知れない。
「じゃあ、何のためにこんなとこへお出ましなんです?」
「つきあいだ。おいがどこいも出かけんで、気を回してくれた」
「それで陰間? 吉原の方が楽しいでしょうに」
「興味はん。それにまだすっぱい終わったわけじゃなか」
「はあ?」
「興味はない」
 向坂は杯を空けた。手酌しようとする銚子を、鈴若が寸ででさらう。銚子は軽かった。他も同様で、追加を頼むかと尋ねると、つきあうなら頼んで良いと言った。
 こうなったら呑むまでだ。薹(とう)の立った鈴若を望む男客はない。女客も、このご時勢で足が遠のいていた。年若い色子の世話で日々を過ごす鈴若が口にするのは、ここのところ安酒ばかり。上物だと気持ちよく酔える。居心地の悪さも払拭されるだろう。




 黙って呑むだけでは、なかなか酔えない。話をしながらなら気も紛れる。鈴若は途切れ途切れながら、向坂に話を振った。振られた彼は短く答えるだけだ。会話になりようはずがない。そのうち種もつき、鈴若は口をつぐんだ。
 開け放った張り出しから月が見えた。高いところに上っている。どれくらい時間が経ったのか、朝までどれくらい時間があるのか。経験から、まだまだ夜は長そうだと読む。客の前では厳禁のため息が出掛かっていた。鈴若は月を見上げることで、辛うじてそれを押しとどめた。
「名はなんと言うのだ?」
 すぐ近くで声がした。いつの間に向坂が張り出しに背をもたせかけて座り、同じように月を見上げていた。鈴若は銚子を引き寄せ、相手と自分の杯に注いだ。
「月ですかい?」
「いや、その方の名だ」
 今更と思ったがそんな素振りは脇にどけて、「鈴若ですよ」と答えた。
「それは本名ではないだろう?」
 会話の中で何度も鈴若が聞き返すので、向坂は武家ことばになっていた。遊びもしない、会話も続かない、そう言うところはやはり田舎者の野暮天だが、声音は良いと鈴若は思った。
「本名なんか聞いて、どうするんです?」
「知りたいだけだ」
 十二から『鈴若』だった。親元を離れた時に、本来の名は捨てた。
「忘れちまいましたよ。もうずいぶんと昔だから」
「そんなことはあるまい。親が付けてくれた名だ」
「お侍と違ってね、それほど思い入れのある名じゃないんですよ」
 鈴若は貧しい小作の末の子だった。彼の上には六人の兄や姉がおり、望まれて生まれたわけではない。従って名前も仕舞いを意味するものだった。喧嘩になるたび兄や姉に「おまえなんか要らない子だった」と詰られたことや、口減らしに一人だけ江戸へ送られた理由が、名前の意味するところからわかると、覚えておく未練はなくなった。
「『鈴若』と言う名は、泣いたり笑ったりする声が、鈴が転がるようだってんでつけられたんですよ」
 正しくは『仕込み』の最中に出た声が…だが。それでも自分のためだけに付けられた名である。何人もの客が、「鈴若、鈴若」と愛おしんでくれた名でもある。本名よりはどんなにかましだった。
 そんな聞かれたこと以上のことを口にしてしまいそうになる。かなり酒量が進んでいるせいだろう。
「そう言う向坂様は、何と言うお名なんで?」
 鈴若自身のことではなく、向坂のことに話を摩り替える。
それにしても、この男は酒が強い。いっそ酔い潰してしまえと、干す側から注いでやるのに、顔色は変わらず、呂律も確かだった。鈴若の方が先に正体を失くしそうだ。実際、少し酔いが回っている。言葉がだんだんと普段遣いに変わっていた。向坂がその方が気を遣わなくて良いと言うから余計だった。
「れんしょう」
 向坂は新たに注がれた酒を一口含んでから答えた。
「れんしょう? なんだか坊主みたいな名だなぁ」
「すでに姉と三人の兄がいたので、親は次に男が生まれたならば僧侶にするつもりだったのだ。武士と言っても貧しかったのでな。七つの年に出家した」
 しかし今はとても僧侶には見えない。黒々とした髪を総髪にして、飲酒もするし、手は出さないにしてもこうして色を買いに来ている。芝居や講談に、僧の身で剣を持ち戦場を駆けた話も出てくるが、そう言う類でもなさそうだった。
「今も?」
「いや。兄が次々亡くなって、跡を継がねばならなくなった。十四の時に還俗させられたのだ。ゆえに正しくは『やすきよ』というのだが、」
と、向坂は杯の中に人差し指を入れて濡らし、月明かりが照らす張り出しの板面に『廉清』と書いた。
「前の響きの方が好きなのでな、普段はそれを使っている」
「意味はあるんですかい?」
「逆にすると『清廉』となる。清廉潔白の清廉だ」
「やっぱりお武家の子だなぁ。良い名をつけておもらいだ」
 たちまち乾いて消えて行く『廉清』の文字を、鈴若は見つめた。同じ子沢山の家に生まれ、同じように『口減らし』の対象になったと思われるのに、名づけ方の違いは歴然だった。ますます名乗りたくなくなる。名乗るまいと心に固く思った。
「寺にいたから、この商売も知っている。だから年端のいかぬ稚児を買う気にはなれなかったのだ。その方なら一晩、酒に付き合ってもらえそうだからな」
 今度は向坂が鈴若の杯に酒を注いだ。返杯以外で客に酌をさせるなどありえない。構うものかと、鈴若は杯を煽った。
「それはそれで複雑でやんすね。床に入れるほどの色気が無ぇって、言われたようなもんだ」
鈴若は苦笑した。
「…そんなことは、ない」
――おや?