題知らず ~もしくは、雑輩に依るmadrigale~
−前編−
「おいは、あん稚児で良か」
背後で声がするのを、鈴若は振り返らずに聞いた。目の前を行く夕顔が、細い首を傾げて後ろを見たのと目があった。湯を使ったばかりの彼の支度はまだこれからだ。それに今宵の相手は、もう決まっている。
この陰間茶屋一番の売れっ子である夕顔を指名するのはわかるとして、「あの稚児で」と野暮な物言いをするとは、やはり薩摩は無骨な田舎者だなと、鈴若は眉間に皺を寄せた。人気の色子ともなれば、吉原の太夫と同等かそれ以上の代物。お客は高僧やお大尽ばかりで、本来なら一見の客など相手にしない――しなかった。しかし討幕軍が江戸に入り、江戸城が開城されると、客筋が変わった。時代の急速な流れを鈴若は感じている。
夕顔がそんな鈴若の様子を見て小さく笑うので、顎で先に進むように促した。夕顔が前を向き直り一歩踏み出した時、「鈴若」と呼び止められる。
「支度はまだこれからだし、夕顔の今夜のお相手は決まってやがるよ?」
先約を反故にして、夕顔を出そうとする腹なのかと言う意味合いを込め、鈴若は振り返って言った。
「いんや、こちらさんはおまえが良いと仰せだ。夕顔は虹太郎に任せて、支度おし」
店を仕切る番頭の喜助が隣に立つ総髪の侍を横目で見た。
年のころは二十四になる鈴若とさほど変わらない。違っても一つか二つ年上と言ったところだろう。背は高く、陽に焼けて肌が浅黒い。そのせいか白目の白さがやけに目立ち、三白眼の強面に見える。
連れらしい二人の侍は、今夜の相手と決めた色子を見て鼻の下を伸ばしているが、彼はムスッと口元を引き結び、鋭い目つきを和らげもしない。望んできたのではないのか、それとも照れているのか。
「支度はせんでよか」
「それはいけません。これはもう薹(とう)が立って、ここんとこ色子としては使っておりませんから、興ざめいたしますよ?」
とんでもないと言わんばかりに喜助が首を振った。連れの二人は早々に座敷に上がって行ったが、「構う」「構わない」の押し問答が続く。その間に夕顔も虹太郎と言う別の小者に連れられて行った。
「とりあえず湯に浸かってくっから」
無粋なやり取りを横目に、鈴若は風呂場に向かった。
慶応四年閏四月、江戸城に東征大総督である有栖川宮熾仁親王が入城し、ここに二百六十余年続いた徳川の世は終わりを告げた。
討幕軍が来ると言うことで一時は騒然となった市中は、江戸城の無血開城で戦火に晒されずに済んだ。ひと月も経つ頃には、逞しい市井の人々は戸惑いながらも、来るべき新しい世を受け入れつつある。彼らにとっては、お上が代わっただけであり、江戸がなくなるわけではない。討幕軍もその気はないからこそ、戦場にすることを極力避けたのだろう。当然だ、江戸は日本一の町なのだから。そうとなれば、自分達の生活を営むだけである。
現に商人(あきんど)はもう、幕府方から倒幕方へと旗色を変え始めている。武家の払いは滞りが日常的になっていた。いよいよ幕府が失くなる今となっては、用立てた金品の回収は絶望的だった。確かに討幕軍の懐具合は未知数ではあったが、『花のお江戸』に進軍して来た田舎者集団は格好を付けたがるもので、支払いだけは良かった。もっとも時勢が変わったばかりで商人の立場は危ういから、うんと下手に『勉強してやっている』ので、儲けは度外視だったが。
鈴若が働く陰間茶屋もそんな機を見て敏なる商売の一つであった。いつの世も色事は廃れることがなかったが、寛政以来、陰間茶屋の衰退は進むばかりで、門前町では二軒も残っていない。それだとて贔屓筋の大名や寺院、数寄ものの大店の行く末次第でどうなってしまうか知れなかった。花魁ばりの隆盛を誇る売れっ子がいたところで、女色と男色とでは圧倒的に客数が違う。生き残るには、客筋は上流のみと言う自尊心を封印し、一見であろうと無粋な田舎者であろうと、金子を落とす客であるかぎり敷居を跨がせる必要があった。
さて鈴若は、その『田舎者』の部類に入る客の前に座っていた。化粧も結髪もせず、振袖でもなく、一応は持ち物の中で一番上等な着流しを身につけてはいるが、こんな素面な姿で座敷に出るのは、十二の頃からこの世界に身を置いて初めてのことである。陰間茶屋での遊び方を知らないのだろう。
鈴若はとっくに色子の旬を過ぎていた。大年増の上臈や後家相手か年下の色子の世話が主な仕事だ。細身ではあるが華奢とは違う。抱き心地の悪そうな、言わば男の体つきとなった鈴若を選ぶあたりからも、遊び慣れしていないことが知れた。
その薩摩侍は湯上りで丁子油の匂いがプンプンする鈴若を前にしても、一人で黙々と酒を飲んでいる。
湯から上がると喜助の使いが待ち構えていて、
「化粧もなぁんもいらねぇとよ。後ろ支度して、さっさと行きな」
と言われ、洗い髪が乾くのもそこそこに座敷へと追い立てられた。身支度を端折ってまで急がせるのだから、早く閨事に入りたいのかと思いきや、これである。鈴若は拍子抜けしていた。
せめて酒を注ごうと銚子に手を伸ばしたが、「いい」と断られた。声がかかるのを待っても、一向にその気配がない。この手持ち無沙汰をどうしたらよいのか。
「あの、お武家様、」
沈黙に堪りかね鈴若から声をかけると、侍は「向坂(さきさか)だ」と名乗った。
「ほな向坂様、私は何をしたらええんでしょう?」
半ば投げやりな鈴若の口調に、向坂は目を上げる。
「京の生まれか?」
やっとだんまり以外の反応を見せた。鈴若は頷いて、話の糸口を広げようと次の言葉を探した。それを吐き出すために息を吸ったほんの刹那に、向坂が続ける。
「でん、さっきは京ことばやなかった」
正しくは近江の生まれである。と言っても、鈴若が親元を離れて東に下ったのは十一で、もう倍の年以上を江戸で過ごしていた。柔らかな子供の頭が生国の訛りを忘れるのはそう難しくなく、今では江戸言葉の方が自然に出るのだが、陰間茶屋では京ことばの方が普通に使われた。その方がおっとりと上品で、客に喜ばれたからである。だから接客の際には、鈴若は努めて京ことばを使った。
しかし考えてみれば向坂がこの茶屋を訪れた時、よもや自分に声がかかると思わなかったから、遠慮なく江戸ことばを使っていたのではなかったか。所作もぞんざいだった。
「生まれは上方でも、こっちでの暮らしのが長いですからね」
今更取り繕ったところで、どうしようもない。多少は丁寧な物言いを選んで、鈴若は言葉を元に戻した。向坂の真一文字の口元が、ほんの少し緩んだように見える。
顔の力が抜けて表情が和らぐと、なかなかの男前だとわかった。薩摩人にありがちな彫りの深さはあるものの、田舎侍然とした泥臭い濃さではなく、色黒はかえって精悍さを際立たせた。居住まいも悪くない。この侍は訛りはあるが、案外、出自は良いのかも知れないと鈴若は思った。
鈴若がじっと自分を見つめるのは、口元に運んだ杯を見ているのだろうと思ったのか、一つ余った杯を向坂は差し出した。
「これはどうも」
「足を崩してよかぞ」
作品名:題知らず ~もしくは、雑輩に依るmadrigale~ 作家名:紙森けい