音
そのような口ごたえをした。根拠は別段なかった。暖めていたのは、きちんとした仕事をしていれば信頼されてそれなりに仕事は入ってくる、という陳腐な感覚に過ぎなかった。自分を売り込む? 親父のいた世界が使わない言葉を披露したかったまでだ。芸人じゃあるまいし、おれ自身を評価する人間なんて、むしろ胡散臭いと思っていたくらいだ。
ただ自分は、親父がもっとも苦手だったであろう営業職、とくに固定給や製品や上司とは無縁の、企業保険の営業現場を踏んでいたことから、親父の知らない羅針盤を抱えているという気持ちにはなっていた。
西暦二千年。還暦をとうに過ぎ、パートと通算して三十年あまり勤務していた食品会社を退職していた母は、祝いだといって紅白の封筒を寄越した。十万入っていた。そればかりか、住宅ローンの残高を精算してくれた。金額は言えない。
──ともかく責任はあるからね。
この言葉を添えて、母は精一杯のことをしてくれた。わかってる、と答えた。そして自分は──。
船出の第一日目から海の冷たさに怯み、ことさら天候の不運を嘆き、はては沖合いを遊弋する船舶をも妬むまでに成り下がった。誰かが言った。悪い行いもまた習慣に属すると。誰かが言った。不運は、それを嘆きたい者に降りかかると。
……自分でわかっている。
そしてまた逃げようとしている。音だ音だ。この音が問題なんだと。
自分は起き上がろうとした。改めて身なりを見渡すと、白いTシャツにパンツ一枚の姿だった。それで脇につくねてあった服に着替えようとするのだが、どういうわけかTシャツがうまく脱げない。脱ごうとしてもぶざまに伸びるだけで、左腕がどうやってもシャツに引っかかって外れない。焦った。気持ちが高ぶっている。苛々しながらも、ああ、おれは半袖に肘を入れて抜こうとしていたからいけないんだと気づき、しかしもう、ここまで来たんだから後戻りはできない、後戻りはできない、何を抗うか、おのれ妖魔め、こうしてくれるわ、こうしてくれるわ。とばかりに右手も加勢してTシャツを無茶苦茶に引っ張った。見えざる敵を意識した。二の腕と背筋を駆使した動作には高揚感が伴った。
そうして醜く伸びきったTシャツが上半身から外れると同時に音は止んだ。
あの音は消えた。ことが終わったという雰囲気が漂っている。全身麻酔から目覚めた手術台の自分。右下がりに細っていくざわめきの音と、雑用だけしかしていない自分のまわりの人類。シューッという、噴出する蒸気のような音。
そこで目覚めた。
夢の中より暗い。なおも音は続いている。名状しがたい恐怖感がある。聞こえるのは、となりの布団で息子と寝ている家内の口唇音だと気づく。口呼吸をしているせいか、前歯で口笛を吹いているような音が数秒ごとに繰り返されている。
自分は冷静になって考えた。
音の正体はわかった。これが夢の材料となったのだ。わが耳が狼少年になる日も近い。がしかし自問は尽きない。では夢の中の父は、何をしていたのか。いや、おれに何を言おうとしていたのか、と問い直してみる。もっともあれは自分の中の父とは限らない。あの姿は、夢が勝手にサイコロを振って作り上げた因果律の世界に属し、畢竟父の姿をした他人なのかもしれないのだ。
あの音の意味は何だったのか。もう一度夢に立ち位置を戻して考えている。家人を起こして詰め寄られても憚らないような理由を父は何か持っていたのか。何を自分に見せたかったのだ。何か知らせる必要があるのか。体の不具合ではなかろう。父はいたって健康だ。じゃあなぜだ。おれを起したかっただけなのか。おれが眠ったままだということを、諭したかっただけなのか。そうなのか。
笑わせるではないか。哀れなり、おれの捏ち上げた父が、覚醒したおれに詰め寄られている。ふはは。回転工具は父の専属マシンだ。ほかに誰も使えない。こんなもので音を立てやがって。おれが眠ったままだと言いたかった? ふふん。そういうこと。ほっ。ほーっほっほっほ。安っぽい。安っぽいんだよ。おれの中の父よ。もしくは──他人よ。世間よ。世の中よ。父よ。……母よ。
もう夢など語らん。所詮この世は、眠りも希望もたいして違いはない。同じ言葉が使われる。おれは父母の二系統からともに長寿の遺伝子を受け継いでいる。さめのばあちゃんは、死んだ後でも心音を打ち続けていた。ステゴサウルスなみだ。焼け上がった棺には骨が残っていなかった。蓋を蹴り倒して釜から抜け出したに違いない。日の落ちた正月二日の山野を経帷子の裾を翻して疾駆するさめの婆あ。成仏だあ? とろいことを申すな。次は何に化けようか? ざまあみろ脚本家。ざまあみろ世間。これはおれたちの「卓袱台のシーン」なのだ。おれの人生、ようよう半ばに過ぎず。何をやってでも残り半分を生き抜いてやる。醜く醜く生き続けてやる。
午前四時に床から出た自分は、ルーズリーフとボールペンを持ってまた寝室に戻ってきた。夢の内容を書きつけておこうと思ったのだ。理由などない。適当な脚本家が適当に考えやがれ。本当は仕事部屋で書きかけたのだが、寒いので布団にもぐりながら、手元の明かりを頼りに書き上げた。二枚半ぐらいの分量だろうか。それでも半時間以上を費やした。
書き終わって、何気なく家内のほうに目をやると、薄明かりの中で半分目を開けているようだった。
──起こしちゃったか。
そう声をかけると家内はゆっくりと頭を回してこちらを見た。
──ううん、ずっと前から目が覚めていたみたい。夢で起されてから。
──夢を見ていたのか。
うん……と言ったきり家内は黙りこんだ。
──ねえ、どんな夢だったの?
家内がなかなか答えないので、時間をおいて同じことを聞いた。家内は、言ってもしょうがないけど、とつぶやいたあと、すぐに続けた。
──あんたが死ぬ夢だった。
家内の口元からあの音がこぼれていた。
(了)