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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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夢──。
 眠りの中で見るものと、希望の内に見るものが、同じ名前で呼ばれている。
 それが気に食わない。
 ──おれは夢を見たけど、夢にも見たんだ。
 どこにそんな日本語がある。それしか言えなかったおれは、本当のまぬけ。

 実家の祖母の部屋で目を覚ました。いまの家ではなく、建て替える前の平屋である。祖父の形見ともいえるこの家は、五十七年目を迎えることはなかった。東西に長いその家の西半分を占める四つの和室は、南西側の奥から時計回りに、八畳、六畳、四畳半、六畳と、不公平な田の字に仕切られていて、その四つ目の六畳間で、かつて祖母は寝起きしていた。
 自分は南枕にした布団のうえで薄目を開けている。状況を理解しようと努めている。左腕方向の八畳の座敷には、祖母が寝かされている気配がある。寝ているのではなく、安置されているのかもしれないと思う。無味無臭の、しかし黒くたなびく煤のようなものが、間仕切りの襖や欄間から漏れているような気がする。この煤は、この世とあの世の境から来た。甕棺の内側にへばりついていた禍々しいやつだ。
 たしか祖母さめのは八十八歳で、いつ死んでもおかしくない年だ、でも世の中には九十三くらいまで平気で生きて、ちゃんと食ったものを消化して一日を過ごしている年寄りもいるのだから、あと五年くらいは大丈夫なんじゃないかと考えている。座敷の中の状況は気になるのだが、怖くて襖を開けられない。生きている人間と死んでいる人間の中間のものが横たわっているように思える。
 目を覚ました理由がわかってきた。何か聞こえる。この音。金属音だ。目覚める前から続いていたのか。
 家全体の北東に位置する台所からさらに東に降りたところの、家族で「ヒガシ」と呼んでいたトタン屋根を持つ物置から聞こえてくるようだ。直感があった。父だ。父が何かしている。
 幅一間半、長さ三間半、十畳分ほどの細長いこのコンクリート地の物置には、いくらか板を敷いて、いろいろなものが並べられていた。それらは昭和六十二年に家を解体するさいに、本体もろとも汚いものを吹き上げながら破壊されていった。残す値打ちは微塵もなかった。父は、二十七年間に及ぶ母子家庭での思い出を憎んですらいたのだ。曇天のもと、うなりをあげて屋根に突っ込むユンボのアームを、父は腕組みしながら無表情で眺めていた。祖母が痴呆を見せはじめたのは、家を取り壊してからすぐのことだった。
 不規則な楕円形の古いタイルを張り詰めた洗面設備があった。水道がないころには、水はお勝手の中にあった井戸からじかに汲み上げていた。地下水脈からの供給力は高かったが、そのぶん水道の整備は近所ではいちばん遅かった。
 洗面所の少し離れた右手には、小学校の理科室にある薬品棚よりも重くて黒く煤けた戸棚。開けるたびに、埃に混じって雑食性の動物の糞のにおいが舞った。嫁いで三年半で夫を失った祖母のにおいだと同じだった。
 北の端に目をやると、議長席のように「ヒガシ」全体を南に見通す向きに据えられたさらに古い箪笥。上半分の引き違い戸の奥には、入れ子のように別の戸棚が設えてあった。下半分の、全部鉄銹でできているのかと思われる蛾眉をかたどった抽斗の取っ手を引くと、揃って役に立たないものばかりが顔を出した。変色した紙にいじましく包まれた銘銘皿。むしろ割れているほうが似合っている。奥に古すぎていまや薬にも毒にもなりようがない薬嚢の粉。老廃した粉。
 下段には何に使うつもりなのか想像もつかない金物や木製の小物がひしめいていた。子どもがボロボロの下駄や櫛を見つけておどけているのではない。本当に何のためにあるのかわからない代物なのだ。なぜに捨てないのか。もっとも、もうこの抽斗をわざわざ開けようとする人間がいないのだろう。
 最下段の抽斗は、木製品に与えられた使命をとうに放棄したらしく、引くも押すもままならず、もはや背後の土壁と同化しつつある有様だった。中身についてはついぞ覚えがない。
 二十八歳までの記憶である。そして父にとっても、これらは嫁を取る二十八までは意味のあるものだったのだろう。
 金属と硬いものをこすり合わせるような音が続いている。夜中の二時か、それとも三時くらいか。台所の向こう側からわずかに漏れる光と音の加減が、早い朝ではなく遅い夜だと思わせる。早暁の寝ぼけ眼でではなく、疲れて熱を帯びた両眼で見る光景だという感覚がある。まさに尋常ではない。父はこんな時間に何をしているのか。
 布団から這い出した自分は、寝ている六畳間と洋間とを仕切るガラス戸を音を立てずに開けると、頭を差し入れて耳を澄ませた。東側に接するこの洋間は、大阪万博のころに玄関から続く三和土を潰して応接間としてこしらえたものだ。この改造により、玄関を開けた訪問客は靴を脱ぐ暇もなく、三灯のシャンデリアがぶら下がり両脇からソファーが迫る狭い応接間を見通すことができるという不思議な間取りとなったのである。
 自分はさっきから音の正体を確かめようと神経を集中させている。洋間と居間・台所を間仕切るドアは夜中でも開いているので、「ヒガシ」からの音は、より大きく具体的になった。
 はじめのうちはあたりを憚るほどのものだったはずだが、しだいに大きくなり、いまや回転工具に負荷をかけているような不規則なリズムを伴っている。高速で回転する直径三十センチの回転ノコに、そうはさせまいと石か金属片を押し当てて抵抗しているような、チューンチュンチュンチュチュチュチューン……という気味の悪い響きである。
 ふと気づいた。父は音が聞かれていることを知っている。それどころか意識している。事情を問われれば誤魔化すことはできないし、しないだろう。そうまでして、この夜中に父は何を為さなければならなかったのか。父の正気は疑っていない。ならばこそ、この行動が腑に落ちないのだ。狂気は多弁だ。あらゆる不条理をまくし立てる。説明がつく。だが、正気は、几帳面がとりえの初老の男の健気さは、いったい何を語るのだ。
 俄然興味が湧いてきた。それを覗きたくて暴きたくて、これはもう起き出すに若くはないとばかりに支度を始めた。好奇心が恐ろしいほどの高まりを見せている。この音は異常だ。甲高い金属音。見ずにはいられない。
 これほど日常を逸脱した、これほど珍妙な出来事にも、説明のつく解が現実に存在するのかと感心している。この音は。辻褄は合うのか。もちろん合う。腹に仕舞える答がちゃんと用意されている。何が起こっていても納得しなければならない。それが現実というものだ。現実なのだ。作りごとではない。それをこれから確かめると思うと胸が弾む。ドラマの筋書きのような、腰を抜かすような展開が待っているかもしれない。いまから明かされるのだ。
 不意に父の顔が浮かんだ。無表情だ。息子が事業を始めることを母から聞いたのだ。ならば二千年のころのはず。時間が十五年も前後している。
 ──それで。やっていけるんか。
 やっていけるかどうかじゃない。おれはサラリーマンや工員とは感覚が違うのだ。おれの両手がこなした労働ではなく、おれ自身を買ってくれる人間が現れるはずだ。おれは自分をそんな風になるように磨いてきた──。
作品名: 作家名:中川 京人