Twinkle Tremble Tinseltown 5
ごそごそと身じろぎが聞こえる。窓から窺えるのは側頭部だけ、大きな掌に埋めた顔がどのような表情を浮かべているのかは分からない。不完全な密室、不完全な闇。縮こまる胎児のような姿勢で、レスはしばらくの間、深い呼吸を繰り返していた。
犬はどうしているのだろう。意識の片隅にはっきりとある存在は、視界の中に薄暗さが居座るたび、くっきりとその形をあらわにした。それほど気になどかけてはいないと、彼女自身が一番知っていた。少なくともこれは慈悲の心を発端とするものでない。病んで萎んだ肉から連想されるのは1994年の夏も終わりごろ。従兄に連れて行ってもらったメリーランドの海水浴場。客もあまりおらず、ネイサンズのホットドックを食べながら水着姿で砂浜を歩き回る。白く砕ける波。藍色にうねる水面。タンカーが横転でもしたのかと恐れるほどぎらつく水平線を挟んだ空は雲一つなく青ざめている。いい加減、全てが冷たさを帯び始めていることは一目瞭然だった。足の指の間に挟まった砂。踏みつける古い烏賊の甲。何もかもが永遠ではない。最初から美しくないもののために。海に浸かろうともせず俯いてホットドックを頬張る少女は、14歳らしく他人の愛を欲していた。分不相応で、けれどやはり期待してしまう自己愛に押し潰されて死にかけていた。
下睫毛の密集した辺りを指で引っ掻き、いつの間にか膝の上で落ち着きを取り戻していた手に力が入る。指先で布地に緩やかな皺を刻み、彼女はうっそりと格子窓に向かって囁きかけた。
「大丈夫ですか?」
「女の死体を切り刻んだ」
思わず息を呑む。
「ビデオを作るために。それで3千ドル。女に笑われたよ。『あたしでもそれくらい、運さえつけば二時間で貢がせてみせるわよ』だってさ。勘違いもいいとこさ、そんなタマじゃないくせに」
残念なことに――心底残念なことに――彼女が青年からこの手の告白を聞くのは初めてではない。巷で溢れているのとほぼ同じ分だけ、青年の身体には姦淫、酩酊、その他秩序を乱す行為への罪が刻まれていた。ありふれていると世間が認めている以上のことすらも行っては噛み砕き、消化不良を起こすとここにやってくる。
「死体は復活なんてとても望めないくらいズタズタにした。手足はばらばら、内臓も引っ張り出して……もともと自殺だったから、天国行きは望めなかっただろうけど」
深々と息を吐き出し、長い指から目だけを覗かせる。ニスも剥げ、威厳のお陰で逆に軽蔑の意味合いを増す扉に視線は一点集中。そこに何があるのか、彼女は知りたいと思った。だが何もないのだろうということは、経験から分かっていた。
「今回も、友だちを引き込んで……医者だから手際よくバラしてくれて、すぐに撮影は終わった。俺は傍でカメラを回してるだけだった」
唇へと押し付けた掌に篭る息が指の隙間から漏れ、声音は一層陰鬱なものになる。
「奴も俺も金に困ってるって言うのが、いつで暗黙の了解なんだ。そう、あいつも嫌だって言いながら金さえ渡せば。そうやって俺は、おしめの頃から知ってる親友を利用してる」
「亡骸は?」
「埋めた。セント・ゲイブリエル墓地の管理人に金を掴ませて」
再び両手で顔を隠し、レスは呻いた。
「これって悪いことだよなあ」
いつも通りどのような言葉を返せばいいか分からぬまま、彼女はじっと埃の溜まった窓枠を見つめていた。相手の言葉を待つ努力など早々に放棄した青年は、はっきりとした苦悶を言葉の節々に混ぜ込む。口ぶりこそ滑らかなものの、進歩や発展といったものは一切見られない。分厚い彼の肩幅がつっかえるほどの広さ、人ごみから一つ分飛び抜けた頭をぶつけるほどの高さしかない告解室の中でぐるぐるとぐろを巻き、停滞したままだった。
「面倒くさいって思わなくなるうちに懺悔しに来た。悪いことだって分かってる。でも放っておいたらそのうち、この感覚を忘れそうなんだ、だから告白しに」
格子のせいではっきりとは見えない。だがそれでも、持ち上げられた顔がこちらへ固定された時、彼女は思わず痕がつきそうになるほど膝を強く握り締めた。
「許されるんだろ? 告白したら」
「あなたがそれを求めれば」
すぐに縺れてしまう舌を宥め、できる限りゆっくりと言葉を放つ。
「神は許すでしょう」
「告白して、すっきりして、罪の事なんか忘れても?」
最近流行の攻撃的な責めではない。そこにあるのはただただ疑いだった。
「結局忘れるんだ。そんなもんなんだ。それでまた、すぐに」
「私が許しても、あなたは許さないのでしょう」
怯えすら滲ませ、彼女は囁いた。
「あなたは眼の前にある罪以外に、恐れているものがあるのですね」
自信が揺らぐ。両手は自然と結びつき、固く小さく、そして白く縮こまった。
「もっと普遍的で大きな。それに抗おうとして、様々な罪を重ねてしまう。けれど、天なる父にとっては」
先ほど青年が父親(father)と言おうとした以上に躊躇しながら、その言葉を懸命に舌へと乗せ、飲み干す努力をする。
「どれも等しく些細なこと。救ってくださいます、身を委ねるのです」
男が何かを言おうとするのを打ち消すよう、彼女は静寂を壊さないぎりぎりまで声音を高めた。
「縋ってください。生まれたままの、罪のない心で」
沈黙が恐ろしい。明るい場所で見ればとことん魅力的なチョコレート色の瞳は、教会の推進する慈悲など欠片も持ち合わせていなかった。暗闇の中、強張りながら光っていたそれがやがて逸らされたのは幸い。それでもまだ、彼女は全身に回った緊張を解けないでいた。
「生まれたときは罪がないって」
呟きは、本人の溜息で掻き消える。引き止める気力は、もう彼女の中に残っていなかった。
「いや。聞いてくれてありがとう」
「本当に許しを得たいのならば、神父様に話を聞いてもらうべきです」
「いや、でも」
椅子の足がタイルと擦れる鈍い音が、彼女の肉体を解放した。自らでも不謹慎と思うほど冗談めかした口調に呼応し、窓の向こうで素直なはにかみと吐息が零れる。恐らく普段、青年が教会の外で浮かべているのであろうと、容易に推測できるような。
「あの人、どうも苦手でさ」
賽の目になった白色が、色をなくした手に届く。同じ光にくっきりと浮かんだ本来の呑気さを隠そうともせず、青年は最後に少し微笑んだ。
「そう言えば、裏の通りで犬が死んでだけど」
暗がりが顔を隠してくれるよう願う。凍りついた表情のまま、彼女は辛うじてそうですか、と掠れた声で返すことに成功した。
「死んでいた?」
「ああ。なんなら保険所に連絡しとく。いくら冬でも、ありゃ酷い」
躊躇は一瞬だった。上唇を前歯で噛み、息を詰める間だけ。傍から見れば、間髪おかずと言ってもよい位の速度で、彼女は返していた。
「お願いできますか」
「分かった」
去り際の軋みはその訪れと同じく静かで優しい。ごつごつと、重く控えめに鳴り響く足音が遠ざかっていったとき、両手で顔を覆わねばならなかったのはジョイスだった。
後悔を覚えるのならば良い。罪を感じるのならば素晴らしい。何も感じなかった。求めることすらしようと思わなかった。あまりにも恐ろしすぎた。
作品名:Twinkle Tremble Tinseltown 5 作家名:セールス・マン