小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
セールス・マン
セールス・マン
novelistID. 165
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

Twinkle Tremble Tinseltown 5

INDEX|3ページ/7ページ|

次のページ前のページ
 

puppy



 詰問のち沈黙。少女の行方を探していた男は、あれ以来一度もここを訪れていない。見つけることができたのだろうか。捜索者ではなく失踪者の心痛を思いながら、シスター・ジョイスは今日もバケツを抱え教会堂の裏を歩いていた。まだ朝の喧騒には早く、冷え冷えとした空気には排気ガスの渋さも混じってはいない。吐き出す息が鼻先で白く凍りつき、その塊が幾つも薄暗い路地裏を転がっては消えた。

 汚水は排水溝へと流れ去っていったが、指先はまだじんじんと熱を持ち続けている。手から下げているブリキが軽くなったことで、反動のように痺れがひどくなった。毎晩クリームを擦り付けては見るのだが、11月も半ばを過ぎた頃から指の第二関節が割れている。別に華美な出来事を求めているわけではない。だが彼女は、あまり自らの肉体を愛することができないでいた。手は勿論、一等疎ましいのはその長躯で、モデルでもないのだから5フィート9インチの身長は生活の邪魔になるばかりだった。すぐに額をぶつけるし、脛と裾が縺れあって転びそうになる。体格に見合う動きの鈍さに則って、彼女の修道服は裾の部分が少しだけほつれていた。気がつけば繕うようにしてはいるものの、今だって冷たい空気をたくし込み、固く膨らむ右後ろが壁に擦れながら細かい糸くずの房を覗かせる。

 大事なものは物質でなく魂だとは、聖書にも記されている神の教えの根幹だ。本当ならば厳しく断罪されてもいいのだが、やはり恐ろしくて彼女は毎回己の罪を自覚するたびに縮こまり、懸命に懺悔を繰り返す。何とか教えに近づけるよう毎日祈る。だからこそ彼女は、懸命に磨いた内陣があと30分もしないうちに足型で汚されても嘆かない。汚れたならば再び磨くしかないのだから。

 冷えた弾力を持つ空気が唸り声に切り裂かれたのは、少し早めの出勤に湧き始めた通りが薄暗い路地からでもはっきりと見え始めたとき。本当はもっと前から聞こえていたのかもしれない。最初はただ、逆光の中に蹲るごみ袋しか認識できなかった。空耳かとすら思った。だが再び、生命そのものの息が、仄暗さの中で厳かに満ちる。

 バケツの柄を握り締める掌に力を込め、彼女はゆっくりと音の方へ近付いていった。今まで霊的体験に打たれたことはないが、一瞬それは悪魔の囁きと勘違いしてしまいそうな恐怖を彼女に与えた。摺り足で近付き覗き込んで、畏れを後悔する。黒いビニール袋と割れた空き瓶の間で横倒しになっていたのは、一匹の痩せこけた野良犬だった。茶色っぽい毛は剥げ縺れ、力なく投げ出された尻尾はちびている。周辺に目やにのこびり付いた瞳は半ば白く曇りかけており、だらりとはみ出た舌と、顎の辺りがほんの少し震える動きで、ようやく生きていることが分かるのだ。名もない雑種。夜半に迷い込んだのだろう。昨晩には見えなかった命。
 しゃがみ込もうとして躊躇する。今晩にも見えなくなる命。今まで犬など飼ったことはなくとも、それくらいは分かった。医者を呼べばいいのだろうか。臨終の秘蹟を施す権限など彼女にはないし、この動物が洗礼を授かっているわけはない。そもそも相手が望んでいるとは到底思えない。犬はただ無心に死へと向かっている。
 中途半端に腰を屈めたまま、彼女は乾いた瞳を見つめようとした。努力はしてみるが、結局様々な分泌液で固まった目元を避けるよう、萎れた肉体へぼうっと視線を注ぐしかできない。どれほど拭っても拭いきれない恐れが、彼女の身体から寒さを奪い、代わりに足を地面へ引き寄せるようにして凍りつかせていく。眼前の浮いた肋骨が、彼女の中の何かと繋がり、引きずり出そうとする。向き合うべきなのかもしれないと、俯いたまま考えた。覚悟はできていない。まるで他人事のように思考が空白になった胸中をよぎる。
 深く瞑想する間もなく、表通りでクラクションが三回、対向車と後続車も何度か。ほんの数秒の出来事にかこつけて、眼を逸らす。しゃんと背筋を伸ばす。容易なことだった。
 後で水を持ってきてやればいい。そう思うことで、彼女は自ら呪縛を解いた。


 染み入るような言葉と湧き出るような音楽。短い礼拝が始まり、終わる。彼女は静まり返った礼拝堂の長椅子の間を這い回り、ごみを拾っていた。今日一日外は曇り空だろう。元から薄暗い建物は暖かい色味の蝋燭を遠ざけ手暗がり。掌と、布一枚で床と接している膝が痛む。それに耐え、四つん這いの姿勢を保つことへ彼女は執着していた。長く重い裾が賞賛するよう後を追い、床を掃き続ける。

 犬にはまだ水を与えていない。やらなければ、という感情は、時間を経るごとに曖昧になる。だがそもそも義務と感じてはならないのだ。慈悲を与えるのは当たり前のことで、強制される以前の問題なのだから。そう懸命に考える己の心を、彼女は持て余していた。動く足につき従う衣擦れの音が、背中から覆いかぶさってくる。


 夢現の世界を優しく踏み分ける足音へ、身体が機敏に反応した。ぴくりと一度頭を持ち上げ、それから上目遣いで身廊を窺う。すでにごつごつという音は通り過ぎた後だった。遠ざかる気配はすぐに止まり、ほんの少しの躊躇。結局古びた木製ドアの軋み。
 もうそんな時間だったかと、彼女はよろめくようにして立ち上がった。黒い布に張り付く白っぽい埃を払うこともせず、ゆっくりと告解室に足を向ける。扉が隠さない膝から下の装束で、男性だということが見て取れた。くたびれたカウボーイブーツ。まだまだこびりついた砂は粉っぽく、恐らく仕事帰りなのだろう。なぜかとてつもない安堵を覚えながら、告解室の扉を開く。
「父と子と精霊の御名において」
 腰掛けながら唱えれば、もそもそと同じ言葉が木枠越しに聞こえてくる。僅かな隙間で空気を共有する狭い空間は、礼拝堂の中よりもほんの少し生温かく、すえた匂いがした。
「今日は何を?」
「お袋を殺しそうになりました」
 既に覚えるほど聞いている懺悔は、いかにも渋々と言った口調で述べられる。大きな身体を丸めるようにして、青年はできるだけへ桟へ顔を近づけようとしていた。
「お前は親父に似たろくでなしだって言うもんだから、テーブルをひっくり返した。会うたびにこうなるんだ」
「ここ数ヶ月、おいでになられませんでしたね」
 彼女は正面を向いたまま、低い場所で平静を保っていた。
「その間、お母様にはお会いにならなかった?」
「ああ、まあ、会うには会ってたけど、父親もいたし」
 ぐっと飲みこむ音がする。格子のおかげではっきりとは見えなかったものの、レスが眉を顰めたまま一度息をつまらせたのは潰れるような喉声で分かった。
「血は繋がってないほうの親父」
「暴力は確かに良くありませんが、殺意を持ったのではないんでしょう?」
「多分。ただ、かっとして。結局アボガドサラダをぶちまけただけで終わった」
「誰も傷つかなかったことに感謝を」
 荒れた指先を力一杯揉みながら、彼女は言った。
「あなたを許します」
 一連のやり取りは多少のディティールこそ違えど、毎回繰り返されるもの。本題はこれからなのだと、訪れた沈黙が告げる。