Cut & Paste
隣にはオオノが少し汗を滲ませて、同じようなコードの中に埋もれていた。僕はその姿をなんと形容するべきか悩んだ。だけど僕の中の情報からその答えが導かれるより先に、「哀れだ」という瞬間的な呟きが漏れていた。
脱力しているオオノを、実験前に指示されたとおりに彼の自室へと運んで呼吸装置などを起動させる。その隣に椅子を運び、閉じたオオノの目が動くのを待つことにした。
僕らは最初の【カット&ペースト】を行った。幾つかのテストを行ったが、成功確率は低かったらしい。僕も計算を手伝うことがあり、確かに五十パーセントの数字を切っていたが、現在までに確立されている技術を取り込み、新たな技術を模索して作った装置の成功率としては高い数値だと僕は述べた。それでもオオノは苦い顔で唇を噛んでは、何のためなのか血を滲ませていた。
その滲んでいた何かは、ようやく実を結んだのだと、僕がかけた声にオオノの目はまだ開かなかった。
オオノの記憶・感情を切り取り、僕へと移植する。その結果、僕の中に「哀しみ」という感情データと、生まれてから幾歳までかの記憶が上乗せされた。オオノの視点で見た景色、人々、鏡に映る幼いオオノ、そしてそれらに付随する想い・感情。時にそれらの記憶にある感情がなんらかの形で矛盾を起こしていることも見て取れた。ふっと目を閉じると、まさに僕が幼いオオノであるようにも思えた。
人の溢れる街で、区画された居住区で、駆けまわって遊んだ思い出。いつからかゲームや機械に惹かれ、遊んでいるうちに仕組みが気になってバラバラにしてみた。壊してばかりときつく怒られ、泣いたこともあった。笑いあう声、粗暴な手と優しい指、内緒話の影、様々な日々。それを中断させる鈍い声が僕を呼んだので、目を開いた。
「水、くれるか」
眉間に皺を寄せて目覚めていたオオノが枯れた声でいう。
「すぐに」
僕はその命令を素直に受ける。
ひやりと冷える廊下を、灯りなしに歩く。カツ、コツと鳴り響く足音と、自分の中に反響する動力音。そこに少しの靄を感じた。水蒸気などの現象ではない。それは内側から湧き出る靄だ。
「動作不良チェック」
キーワードを呟けば、全体を駆け巡る光が異常箇所を探る。結果は異常なし。
「……」
しかし靄は消えない。手を動かすのに、なんだか変なタイムラグがあるような、世界が遅くなったような、そんな違和感。
台所の水はキラキラと泡が光る美しい水で、コップに注げばその光が弾けて消えていく。じっと見つめればそこにまた何かの靄を感じる。
揺れる水と暗い部屋、そして消えていく光と消えない靄。
僕の中に貼り付けられた哀しみは少しずつ、実感を伴って成長していくところだったのだ。
***
「オオノ、はじめます」
僕の言葉に振り向いたオオノは、ベッドの上でへにゃりと笑った。子供のような楽しそうな顔で僕の方を見る。
「そうなのか。うん、好きにしな」
僕の沈痛な表情も、オオノはこれから何が始まるのかも理解しようともしない。怒りと悲しみがこみあげる。何故、こうなってしまったのかもう何度も考え込んだ。だけど時間の中に生まれるものたちは皆等しくその原点、生まれたということがなければ後悔も絶望もなかった。そして僕はきちんと理解している。生まれなければ何もなかった、だから生まれている僕が生まれてしまったことを後悔しても意味がないのだと。それは人が死んでしまうことを止められないことと同じだ。
絶対的不可能を、絶対的な無意味を僕は願っている。
それでも僕は最後のカット&ペーストを始める。
多分、僕がロボットでオオノが僕にそうしろと命令したからだ。だからこれは僕の意思ではない。そう思い込んで、僕はオオノの手を取った。微笑むオオノはどこまで分かっていて、何を覚えているのだろう? 何故僕に、「人の心にある正確な感情・記憶・他を正確に受信できる」機能がついていないのですかと、最初に聞いておけば良かった。だけど僕にはその“最初”が分からない。ロボットとしてのシステムに上乗せされた感情が、様々な矛盾を引き起こしていく。
オオノの最後の記憶と感情を受け取ることに、オオノから得た感情の一つである“恐怖”のようなものが疼いた。
実験室への白い扉が、やけに汚れて見えた気がしたし、黒いコードが誰かの手の影のように思えた。それでも僕らはその中に身を横たえに進んだのだ。
今日もまたオールグリーンの小さな光たちが集まる。目を閉じる寸前、その光が笑ったように見えた。その意味と、感じた想いが、まぶたの奥で響いていく。データが収束し一時停止した。
***
哀しみを最初に覚えて、僕は何故かオオノという個人の人間が可哀想に感じるようになった。
次に怒り。怒りと哀しみが近しいことに僕は気付いていた。
怒りとは対極にも思える諦めを知った時、僕の哀しみの感情は絶望を覚えていた。
喜びはそんな僕を僅かだが慰めた。短い時間を少し華やかにさせたのだ。
希望、夢に縋ることもこの時に覚えていたような気がする。
そして少しずつ加算される記憶の数々に、僕の感情は震えていた。
あの優しい人の美しい瞳に惹かれながら―
***
データの復旧、再起動を経て僕は目を覚ましていた。緑色の光は瞳ではなくデータの中に強烈な色を残して消えるのを見る。装置の唸り声が少しずつ収まっていく中、静かにオオノはコードの中に埋もれていた。首や頭からコードを引き抜くと、鳥肌が立つような気持ちが沸いた。それは人工的な肌色に影を落とすこともなく、ただどこかにくすぶる。
「終わりましたよ、オオノ」
そう言って、僕は彼を抱え上げた。いつもどおりに彼に繋がるコードを引き抜き、部屋へと連れ、ベッドに寝かせる。窓の外では大風がまだうるさく鳴いていた。
ベッドの上で、目を閉じている彼は息の音も目を動かすこともなく、ただ静かに横たわる。彼に大風の音がもし聞こえているなら、楽しげに窓の外に目を向けてくれただろうか。僕は水分のない彼の手をゆるく握り、残っていた体温がなくなる時間を過ごした。
そうして彼は亡くなった。
彼の体温を吸収した僕の手はぬるさを感じながら、漂っている。
カットし終えたオオノの中にはもう何もなくなってしまった。代わりに、僕の中に“オオノ”の記憶と感情が有る。
「オオノ、」
僕の中に、実験の成功に歓喜する想いと、これからどうしていけばいいのか分からず泣きそうになる感情がまぜこぜになって、酷く苦しくなる。実験は成功したというのに、僕の経験というデータがオオノへの何かしらの感情を叫んでいるように思えた。しかしそれをぶつける相手はいない。いや、ぶつける相手が変わっただけなのだ。目の前で横たわる“遺体”からそれを見つめる“オオノ”の器へと。
遠くに見た夏の風の記憶が揺れる。青い空と白い雲のコントラストがちかちかと瞬く。
「僕は……、」
同時に思い出すのは美しい背景に黒く塗り潰されたシルエットだ。思い出せないのは、それが誰のシルエットなのか、だ。“僕であった僕”と“僕になる前の僕”のどちらがこの景色と黒い黒い影を見ていたのだろう。エラーなのだろうかと思っても、瞳の奥にエラー表示が点滅してくれない。
作品名:Cut & Paste 作家名:ニイチ