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舞うが如く 最終章 1~2

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舞うが如く 最終章
(2)下級武士たちの末路



 幕末まで、下級武士たちの俸禄(ほうろく)は、
「三両一人扶持(さんりょういちにんぶち)」と決められていました。
これは、物価の高低とは関係なく、一律のものとして定められました。
年間で3両の金銭と、成人男性が1年間に食する米を1日5合と計算をして、
年間分として約5俵を、現物で支給されていました。



 この俸禄ですべての家族たちを養っていたために、
下級武士たちの日常の生活は、きわめて困窮をきわめていました。
さらに幕末期になると、諸物価が急激に高騰をしました。
幕末前には1両で200日分の米を買えましたが、幕末期の慶応年間になると
約17日分しか購入できなかったと言われています。



 それに比べると、商家などに奉公する者の賃金は年々高騰し続けました。
江戸の中期頃になると、年3~4両に加え、盆と正月には仕着(しきせ:季節ごとの着物)
を支給しないと、奉公に来ないという風潮さえ定着をしました。
そのために、下級武士の地位はさらに下落をしていきます。



 生活を少しでも改善しようと考えた下級武士たちは、内職などに精を出しました。
本来であるならば武士は名目上、副業などは禁止をされていた時代です。
しかし、暮らしていけるだけの俸禄を受けていない以上、下級武士たちは、
自力で生活を支えなければなりません。
それらを理解したうえで黙認、あるいは推奨していた藩は全国各地にありました。



 山形県・天童市では、
江戸末期にこの地方を治めていた天童織田藩の家老により、
手内職として、駒の製造が奨励をされました。
全国の将棋の駒の大半を生産する天童の将棋駒の基礎が作られました。

 また、米沢藩主の上杉鷹山(ようざん)は、
藩政改革のために、自ら蚕を飼い家来たちには機(はた)を織らせました。
領民には養蚕や製糸、織物をひろく推奨しています。


 そのほかにも、自宅での農作物の栽培などをはじめ、傘張り、ちょうちん張り、
植木や草花の栽培、ろうそくの製造などが、
個人または、組屋敷での集団的内職などとして行われていました。
組屋敷での同じ役目の者同士による組織的な内職は、材料の共同購入や共同納入などで、
業務の効率化を図ったものともいえました。



 幕末期に、生活苦にあえぎながらも
たくましく生きた彼らは、内職による「職業訓練」によって
技術を身につけることにすでに成功をしていました。
明治維新後の廃藩置県により、路頭に迷う武士たちも少なくありませんでしたが、
こうして手に職をつけていた下級武士たちは、武士を捨てた後も無理なく転身をして、
その技術を生かして身を立てることに成功をしました。


 「芸は身を助ける」の言葉どおり、
激動の時代を生き抜いた下級武士たちを助けたものは、
苦労時代を支えた、内職という芸だったのかもしれません・・・・