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フォックスギャップの亡霊

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09.痛みは忘れた



 ぱくりと口を開けたスポーツバッグ。中に手を突っ込み、無造作に札束をつかみ出す。しみったれカジノの癖に、どれも手の切れそうな新札ばかりだった。1万ドルの束を10個ベッドに積み上げ、おまけにもう1束。それらがレナードの手から完全に離れた途端、オリヴィエは掻き込むようにそれをナップサックの中へ落としていった。
 今夜のペッパーミルはもう、手に負えないほど白けているに違いない。カリビアンスタッドのサイドベットは1万ドルに戻り、二人のハイローラーは夜も更ける前に姿を消した。
「ヤバいよ」
 チャックを閉める指を固く強張らせながら、オリヴィエは息の塊を吐き出した。
「追いかけてくる」
「落ち着けよ」
 恐らくカジノにいるどの客よりも白けた目つきで、レナードはスタウトの瓶を傾けていた。せっかく大仕事が終わって余韻を楽しみたいところなのに、オリヴィエはもう旅支度。今夜中にロサンゼルス行きのグレイハウンドに乗り込むのだという。とんだ腰抜け。さっきだって、今にも泡を吹いて倒れないかとひやひやさせられた。何とか持ちこたえさせ、二人合わせて28万ドルは見事手の中へ。確かに、同一テーブルで発生した二度目のジャックポット――しかもロイヤルストレートフラッシュと来た――にフロアマネージャーは大いなる不審を抱いただろう。だがこれで最後、もうここに来ることはない。

 テーブルから去り際、縛り付けられたように座席へ腰掛けているオリヴィエの肩をぽん、と叩いた。「あんたも程々にな」。振り払いざま引ったくられるカード。最初の一週間で散々仕込んだ経験が動揺を上回ったのか、最後まで警備員は飛んで来なかった。これは褒めてやってもいい。この三週間で、初めてレナードは思った。


「帰るときダンが、合図……『お袋が危篤』」
 オリヴィエは忙しなく眼を瞬かせた。
「何呑気に酒なんか飲んでだよ。怪しまれてるんだ。俺、ここまで来るにも散々回り道して……つけられてないとはないと思うけど、分からない、ああ、もう、ヤバいって」
 子供がテディベアへするように、虎の子の入ったリュックサックに強く頬を押し付ける。
「当然だろうな」
 本来はもっと焦らなくてはいけないのに、レナードは自らの唇が冷静に言葉を吐き出したことに驚き、そして心のどこかで満足していた。ベッドへ寝そべり、特に興味などない育毛剤のCMへ身を任せる。
「あれだけカモられて何も思わないなら、あそこのピットボスは頭がいかれてる」
「分かってるなら準備しろよ! もうアパートの前まで来てるかも」
 口では言いながらも、足は室内をただ右往左往。下品な音と共に瓶口から唇を離し、レナードはゆっくりとマットレスの上から身体を起こした。
「お前、ロスに行くって?」
「うん……うん、そう。あんたは?」
「ま、ゆっくり考えるさ」
 オリヴィエの脇をすり抜け、バスルームに入る。閉じたら声が聞こえなくなることはこの三週間のうちに知ったので、開けっ放しにしておく。オリヴィエはリュックサックを抱きしめたまま部屋のど真ん中で仁王立ち、張り上げられた声は情けなくひっくり返る。肩を竦め、レナードはパンツから自らのペニスを引っ張り出した。
「考える!? そんな事してる暇あったら」
「素人同然のいかさまも見抜けない連中だぞ。そう簡単に嗅ぎ当てられてたまるか」
「でもダンが合図を!」
 結局気配はドアの前までやってきて、きゃんきゃん声が狭い室内一杯に充満する。必死で、身体の中心から搾り出したかのような音色だった。落ち着けよ、ミスター・オレンジ。お前はファッキン・スーパークールなんだろ? 
「お前、俺よりあんなアホの言うこと聞くわけか」
 沈黙を待ち構えていたかのように、便座のない便器で跳ねる小便の音が甲高く二人の間に入り込む。
 レナードがぶるりと肩を震わせてから、オリヴィエはか細い声をリュックサックの布地に吐き出した。
「なあ、俺の親父さ。『ホテル・キングダム』ってカジノをアトランティック・シティでやってるんだ。俺のこと、認知してないけど……それで、そのことについてちょっと揺すったら、10万ドルくらい簡単に入るって。俺、整形したら行くつもりで」
 今にも全てが爆発し、崩壊しそうになっているのが声だけでも分かった。だから訂正。こいつはスーパークールじゃない、ミスター・オレンジではない。
「脅すのが無理でも、そこのカジノで今日みたいにさ、きっと眼を瞑ってくれるよ。負い目があるんだから。でもここにいたら、間違いなくハンマーで手を叩き潰されてまた刑務所に逆戻りだ」
「おとぎ話みたいなこと言ってんなよ、クソガキ」
 振り向きもしないまま、レナードは言った。事の緊急性は、恐らく後ろの馬鹿よりもしっかり飲み込めている。だが何故か、顔に浮かぶのは笑みだけ。おかしくってたまらない。こんなに金があるのに、こんなに上手くいってるのに。
 俺はミスター・ホワイトじゃない。こんなところでくたばりはしないし、それに。
「俺はお前と違ってファッキン・スーパークールのタフガイだからな。ハンマーなんかでくたばってたまるか」
「でも」
 背後でぐうっと喉が鳴るのが聞こえた。決着を付けたかった。ペニスの先っぽから、酔いも出来ないアルコールが揮発する前に。
「行けよ。ダンは俺が話つけとく」
「レナード」
「ビビり過ぎてトラックに轢かれんなよ」
 思ったよりもあっさりと身が翻されたことに安堵する。レナードがペニスをズボンの中へしまいこんでいる間に足音が部屋を駆け抜け、水を流す直前になってドアが乱暴に閉まった。

 部屋に戻り、レナードは再びベッドへ身を横たえた。何故今なって、弟のことを思い出したのか。弟はオリヴィエと似ても似つかなかった。共通点を探そうと努力したが結局どれも錯覚で、思い当たるのは一つだけ。弟はレナードと違い、情けない父を慕っていた。そして父は、そんな弟を腰抜けだと最後まで思い込んでいた。

 ビール瓶を取り上げまた一口。添い寝しているのは50万ドル。もうクローゼットの闇に潜む間男はいない。意味もなく気分が高揚する。
 テレビから流れる陽気なBGMに促されるまま、レナードはサイドボードの引き出しを引っ張り開けた。