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フォックスギャップの亡霊

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08.甘くて赤い錆の味



 繰り返されるチーティング。隣でカードへ手を伸ばす気配を感じるたび、オリヴィエは背中に冷たいものが下りるのを感じていた。
 過去2回の賭けとは訳が違う。これまでレナードは、狙ったところでフォー・オブ・ア・カインド。自らの掛け金が20倍になって返ってくるに甘んじていた。幾らつましいリノとは言え有り得なくもない当たり。目立つことなくカジノを後にしていたはず、そう信じたい。

 だが今夜、レナードは車の中できっぱりと宣言した。「今日はジャックポットを出すまで帰らない」。舞う色とりどりの光を遮断し、黒々と伸びる道路の果てにそのまま吸い込まれてしまいそうな恐怖。
 ただでもカジノ側に有利なカリビアンスタッドで、唯一のお楽しみはサイドベット。ゲームのたび、客は1ドルずつ金を余計につぎ込むことが出来る。カジノ中にある全てのテーブルから吸い取られた金は塵も積もればの言葉通り溜め込まれ、客がある手を揃えた瞬間一時に放出される。ストレートフラッシュならばプールされたうち10パーセント、ロイヤルストレートフラッシュならば100パーセント。文字通り大当たり(ジャックポット)。

 今、Kマートにあるキャッシャーのような電光掲示板に示された額は18万2000ドルとなにがし。しけたご時勢、ここまでの大金も珍しい。全部掻っ攫えば、碌に賭けていなかったとしても一度でおさらば。そうなればロスで整形、ビーチで日向ぼっこ。
 カードに施される愛撫がアイ・イン・ザ・スカイ(監視カメラ)に映っていないのか。気に掛けられていないだけか。少なくともオリヴィエは刑務所の食堂でもカジノでも、レナードのトリックを見抜けた例がない。上手いのだろうと思う、信用していい程度には。それでも靴底にくっ付いたガムのように拭い取れないイメージは振り下ろされる金槌。Bang, Bang, Maxwell’s silver hammer come down upon his head.子供の頃ポール・マッカートニーの鼻に掛かった声に合わせて口ずさんだ歌が、先ほどから何度も頭の中で繰り返される。
 何度目になるか分からない、ダンが親指を殆ど使わない器用な動きでくるりと自らの手札を返す。知ったこっちゃない。オリヴィエのすることは、指示されたとおりカードを捲る素振りをみせ、そしてラックから200ドルをつまみ出す。301ドルのベット。未来への投資。負けない限り99ドル余計に返ってくる。勝負の行く末など碌に気を払えないまま、オリヴィエはピンク色のマットを眺めていた。
 ダンが手の内を明かす。クォリファイ(ゲーム続行)。レナードの指がカードを辿る。ぞっとした。結果はツーペア。喜んでいいのか悪いのか。
 暗澹たる気持ちを引きずり、オリヴィエは自らの前に並べられたカードを返した。
 スペード。8、6、5、4、7。

 流れが止まる。

 最初に口を開いたのは最後に反応を示すべきレナードだった。低い低い呟き。「マジかよ」。ダンの口は開けようとしたのか閉めようとしたのか、非常に中途半端な場所で凍り付いている。オリヴィエに至っては、状況の不穏さに気付き、戸惑い、それから身を硬直させた。まさか何かとんでもないことを。レナード、馬鹿、だからこんな事嫌だって最初から。
「お客さま、ジャックポット」
 頭がじくじくと痺れ、それから涙腺にその震えがやってきた瞬間に、ダンがようやく声を掛けた。「ジャック」が一度喉で絡む。
 彼が背後のピット・ボスに合図を出し、あれよあれよと進んでいく流れは口裏合わせには入っていない。ぽんっとライトが灯り、それからすごい騒ぎ、隣のテーブルにいた客までもがこちらに視線を向ける。剥き出しの意識で、全てをはっきりと感じることができた。嫉妬、羨望、賞賛。中でも禍々しいものは、一番近い場所から来るもの。呆然としたままの頭で振り向き、助けを求めて後悔した。今にもぶん殴ってケツの穴に銃口を突き入れ、弾倉が空になるまで乱射しそうな目。飛んできた従業員。数字を確認したフロアマネージャーが鍵を差し込む。一瞬のうちに電光掲示板に示された数字が小さくなる。金を取られたにも関わらずピット・ボス――ダンの説明では蛇蝎の如く忌まわしい男――がにこにこと握手を求める。レナードがさりげなく右手を自らの膝の上に乗せ、笑顔を作った。「おめでとう」。彼の声だけが洞に響いたかのようにぼんやりと、それでいて確実に聞こえた。
 まずアンティの200ドル、レイズの1万ドル、そしてお楽しみのジャックポット、1万8200ドルと幾らか。恐らく自らは、今夜このカジノで一番大儲けした男になるだろう。誰かがイカサマなど企まない限り。ポラロイドで写真を撮られた瞬間、焚かれたフラッシュの光がそのままの形で頭に入ってきて、せっかく機能しかけていた脳を白く焼く。

 Clang Clang, Maxwell’s silver hammer made sure that he was dead.

 今にも叫び出しそうだった。叫び出さないのが奇跡だった。こんなところで死にたくない。まだまだやるべきことが色々。
 去っていく人々と、テーブルの上に残された札束。こんな金額、カジノどころか生まれて一度も見たことない。背中にぐっしょりと滲んだ汗が冷えても動悸は消えなかった。だから気付くのが遅れたのだ。流れを止めたのが自らであるということに。
「続けます?」
 ダンが静かに尋ねる。先ほどの恐怖など忘れ、オリヴィエは再び反射的にレナードを窺った。もういい、もう十分。自らの取り分は少なくていい。この当たりだけでも十分なほどだ。このまま逃げ出そう。
 精一杯そう訴えたつもりなのに、レナードは席を立とうとしなかった。まるっきり無表情で、じっとこちらを見つめている。先ほどのような凶悪さなど微塵も感じない。半開きの唇。ぼんやりと霞が掛かったような瞳。夜のヴァージニア湖のように静かで、動かない。
 今逃げ出したらとんでもないことになる。くすねたスプーンで喉を掻き切られたり、枕カバーに詰めた聖書で袋叩きにされたり。先ほど彼が弄っていたリボルバーを思い出す。振りかざされたハンマーを思い出す。
 ハンマーで手を叩き潰されても死にはしない。簡単に思い出せる、血に関する感覚を振り払い、オリヴィエはチップを掴み出した。思考はともかく、手の震えばかりは止めることが出来なかった。