『喧嘩百景』第4話日栄一賀VS銀狐
一賀の爪がそこを掠めたのだ。
つうっと温かいものが頬を伝う。あの体勢から顔面に掴みかかるなんて――。浩己は手の甲で頬を拭った。
一賀は片手で腹を押さえ、もう片手で胸を押さえて俯いていた。
今の膝蹴りは効いているはずだ――。
――あんな身体でよくもここまでやれるものだ。もう立っているのもきついはずだろうに。
それでも一賀は息を抑えて顔を上げた。
ゆらりと浩己の方へ足を踏み出す。おぼつかない足取りの一賀は、こつりと躓(つまづ)いて浩己の方へ蹌踉(よろ)めいた。 そのまま浩己に掴みかかる。
浩己はその細い両手を受け止めた。
いくら何でも正面から組み合って力負けすることはないだろう。
浩己は組み合ったまま一賀の身体を引き寄せた。
軽い身体は易々と引き寄せられて彼の懐に入ってきた。が、今度は一賀の膝が浩己の腹に食い込む番だった。
打ってくるとは考えられない不安定な体勢からの重い一撃だった。
手を離して離れようとする浩己の腕を掴み直してぐいと引く。
前のめりになった浩己の後頭部に両拳を揃えて叩き込み、倒れる寸前に喉元を蹴り上げる。
「浩己!」
裕紀は痛みを堪(こら)えて身を起こした。
浩己はがくんと膝をついて仰向けにひっくり返った。
頭部を激しく揺さぶられて完全に脳震盪を起こしている。
裕紀は、浩己の意識がなくなったのを感じて立ち上がった。
「お前、腕一本じゃあ懲りないのか」
一賀は裕紀の方へ目を向けたまま、気を失っている浩己の腕を掴んで身体を引き起こし、肘の辺りを蹴り付けた。鈍い音がして腕がおかしな方向に曲がる。
「止(よ)せっ」
一賀が浩己のもう片方の腕を取るのを見て、裕紀は 声を上げた。
――両腕、潰す気か、なんて奴だ。
裕紀は腕を押さえて一賀に蹴り掛かった。
――浩己っ、起きろっ。
浩己の頭に意識を叩き付ける。
「…う……」
浩己は腕の痛みで意識を取り戻した。
「裕紀…」
視界にがくんと膝を折る裕紀の姿が入ってくる。
その肩に一賀が手を掛けている。
浩己は立ち上がって一賀に身体ごと飛び掛かっていった。
「お前もか」
作品名:『喧嘩百景』第4話日栄一賀VS銀狐 作家名:井沢さと