天井桟敷で逢いましょう 第一話 家の話
別にタクシーに乗ってもよかったが、排気ガス、ソース、甘栗、街路樹、埃、アスファルトなどの臭いが入り混じった、なんとも猥雑さに溢れた空気を吸いながら歩くのも悪くはない。
どうも、この田舎というには猥雑で都市というには貧弱な町の中途半端な風情のせいで、妙にリラックスし始めている自分があった。
「子供会バザーのお知らせ」
「この猫を探しています」
「ランチセット 800円(コーヒー付)」
「世界人類が平和でありますように」
見かける看板や張り紙に漂うリアルな生活感に浸らされていると、なんだか大崎家での騒動や自分の立場などが、遠い別世界の出来事のような気がしてきていた。
地方の都市や町の大きな特徴として、“繁華街に持続力がない”というものがある。
都市開発や駅前再開発などによって、駅前や繁華街周辺は中々に都会っぽく取り繕えても、その姿が繁華が長続きしない。
駅から10分ほど歩けば、たちまち馬脚を現して、建物がまばらになっていったり、田畑が見え始めたり、住宅街になってしまう。下手をすれば5分ともたない例も少なくない。
その建物は、小さなうらぶれた町に相応しく5分と持続力のなかった駅前商店街を越えて、すっかり住宅街となってしまっている中に、いきなりと出現してくれた。
「これは……」
一目見たとき、なんとも言えない表情を俺はしていたに違いない。
それが第一印象であった。
その建築物に対する。
『座芸演追月』
正面玄関上に掛けられた右読みのいかにも時代がかった看板に、その建物の名称がかけられている。ホールという通常とは構造が違っているだろうから内情はわからないが、高さは3階建てのビルほど。横に広がった敷地面積は、このようなホールとしては大きくもないが小さくもない。外観からすれば100〜200人収容規模といったところだろうか?
古びたコンクリートの下半分には蔦の蔓に覆われて、その古色蒼然たる風情を強調している。もはや活動はしていないのだろう、看板やチラシなどは張られておらず、ただ建物のみが佇んでいる。閑散というよりも静謐といった落ち着いた雰囲気で、様子は今にもカレーの匂いでも漂ってきそうな生活観溢れる住宅街の中で、はっきりと違和感そのもののであるかのように倣然と聳え立っていた。
「どうしろってんだよ、こんなもの……」
思わず声に出してしまう。
確かに建築物としては立派なものかもしれない。
しかし、これをその名のように“演芸ホール”として運営するにしても、ここでなにかの商売やら事業を起こすにしても、こんなうらぶれた町の隅でしかない立地は、あまりにも不利過ぎる。
という事はただたんに土地として叩き売ったとしてもたかが知れているという事にしかならない、という事でもあった。
ジジイともあろうものが、最後の最後に残してくれた遺産にしては、ぶっちゃけて言ってしまいたいが、あまりにも期待外れな代物であるのは間違いなかった。
……ああ、わかったような気がする。
なんだかんだ言って、俺は今の今までジジイが残してくれたものなのだから、それなりに意味があるものだと期待していたのだろう。
少なくとも、俺が、俺から全てを奪い取りやがった奴らから、俺を長年親しんだ家から追い出した者たちに、奪い返し帰還するための、そんな道への手がかりか何かが見付かるのではないか? それとも逆襲の基盤にできるような何かがあるのではないか? そんな期待を心のどこかでしていたのは確かだったろう。
未練なのか、消沈からなのか、俺はふらふらと敷地の中に入り込み、なんとなく建物の周囲に足が向いていた。
ブロックではないコンクリートというよりもベトンと読んだほうがいいような古色と苔を這わせた塀に囲われた敷地と建物の間の空間は、丁寧に木が植えられて、塀とは別に周囲と隔絶した空間を作り上げている。
このホールが建物そのもの以上に静謐な印象を与えるのは、木々で囲われて住宅街から一線を隔しているせいもあったろう。
誰かが手入れをしているのだろうか?
マイルドな生垣のような役割をしている木々の足元には、枯葉や下生えの雑草は最低限に抑えられていて、足にまとわりついたりして歩き難いような事はなかった。
(ああ……価値はないかもだけど、いいところなのかもな……)
木陰に冷やされ、適度な湿り気を帯びた空気がなんとも心地よかった。
(あれ? まてよ。この草の様子だと)
よくよく考えてみれば、誰かが手入れしているようにも思えた。
そういえば、この建物は廃墟なのだろうか? それとも誰かが管理しているのだろうか? 少なくとも、敷地の手入れはなされているようなのだ。
(いったい誰が?)
なんの収益性もないような、こんなうらぶれた演芸場の面倒を見ている人間が誰かいるのだろうか?
敷地を散策しながら、そんな事を考えていた。
あまり意味のある思考でもない。ただ気づいた疑問を脳裏を浮かべただけで、真面目に検討する気もないような、そんな程度だ。
つまりは、上の空。
まあ、深く何かを考えれば考えるほど絶望的に気分になるので、少し逃避が入っていたのもたしかだ。
そんな、呆けていたのが油断だったのかも知れない。
敷地と建物の間の空間が急に開けて、視界が明るくなる。
どうやら中庭にでも入ったようだ。
なんとなく、建物沿いに曲がって行こうとした途端に視界が無くなる。
顔に何か布のようなものが覆い被さってきたようだった。
(……?)
柔らかく薄い軽やかな肌触りだ。
もちろん、いつまでも視界を覆われているのは愉快な事ではない。
落ち着いてその布のようなものを顔から離す。
手に取ってみれば、それは、女物の下着であった。
確か、キャミソールとかいったか?
(なんと)
辺りを見渡すと、中庭に木と建物に張り渡された物干しロープにたくさんの洗濯物が吊り下げられている。
どうやら、そのうちの一つに俺は顔を突っ込んだらしい。
まあ、中身ならばともかくとして女物の下着を見て慌てる性質でもないので、状況確認のために周囲を改めて見回す。
(誰か住んでいるのだろうか?)
と、一歩踏み出そうとしたときに、辺りに古臭い非常ベルのような金属音が鳴り響く。
「なっ、んだ……!?」
足元に違和感。
見れば、細いテグスのような糸が引っかかっている。
「トラップ!?」
何故に?
との思考を廻らせる前に、問いの答えが目の前に現れたようだった。
「きーさーまーかあぁぁー!!」
手に棒か棍か杖か、ああもう、呼び名はどうでもいい棒状の凶器を構えた女が出現。
鮮やかなポニーテールというのだろうか? しっぽを風にたなびかせ、俺に向かって全力疾走。低い姿勢で突きを狙う姿が素人ではないのは一目瞭然。あの腰の入った構えから繰り出される棍で喉を突き上げられでもしたら、ただでは済みそうにない。
などと観察している場合ではない。
今、俺の手には先ほど顔から外したキャミソール。
つまりは言い訳のできる状況ではない、というわけだ。
「天誅ぅぅ!!」
完璧に戦闘状態になっている相手に弁解は無理にして無駄。
作品名:天井桟敷で逢いましょう 第一話 家の話 作家名:大澤良貴