天井桟敷で逢いましょう 第一話 家の話
「あの……」
と、ちまちまと脱出準備をやっていると、自室をノックの音がする。
もちろん俺は、みっともなくうろたえる。
「な、なんだ」
まさか、こんなに早く……と思いとりあえず、脱出用の鞄をかくしてドアを開ける。
ドアの前には、女が一人。
外観の和風建築に合わせた、古風な女中風の着物に身を固めた姿は、家の女中の一人である証拠であった。
「篤さま……」
「なんだ、遥香か」
俺はほっと胸を撫で下ろす。少なくともやつらの手の者ではなかった。
というより、俺個人にとっては味方である公算は高い。昔、俺はこの年上の小間使いの、長い髪と物静かな風情に惚れて手を出した。それであっさり想いは叶い、俺は女を知った。
以後、2年ぐらいその関係は続いていたわけだが、どうもそれは祖父の手を回した結果だったらしい。つい最近知ったその事実には少々まいったが、いい女だし、好いてもいたので、そのまま事実として受け入れることにしていた。
「ここを出て行くのですか?」
さすがに鋭かった。
一時期は俺の家庭教師もやっていたぐらいだから、頭が悪い女でもない。
今の俺の状況を考えれば、この屋敷が俺にとっての死地である事ぐらいは理解できるだろう。
隠しても無駄だな。
どうせ、この女にまで奴らの手が回っているようなら、もはや俺の逃げる余地もない。
「ああ、逃げるよ。まだ死にたくない」
「やっぱり……」
あっさりと彼女は首肯する。
「車を用意しておきました。ただのタクシーですから信用はおけません。とりあえず駅までいってください。そこからはご自分で……」
「わかった」
俺は急いで鞄を引っ担いで、部屋を出る。
なんの愁嘆場を演じようともせず、ただ俺の欲しかったものを用意してくれたあたり、本当にいい女なんだな、と思う。
女中たちの部屋を経由して裏庭へ。そして勝手門から出る。ときどき表のほうから罵声や怒声が聞こえた。どうやら一族たちの相続争いは今が最高潮のようである。
門を出るとタクシーが一台待っていた。うちの息がかかったタクシー会社ではなく、個人タクシーを呼んだのは、彼女ができる範囲での配慮だったに違いない。
「これでお別れか……」
俺はちょっとだけ感傷的になって呟いた。遥香とも、この家とも、祖父の思い出とも……。
そう考えるとちとさびしいのは確かなのだ。
「そんな事ないと思いますよ?」
なぜか確信を込めて彼女は言った。
そして、笑った。
なんだか、それだけで勇気をもらったような気がして、俺は彼女の髪を撫でた。いつも思っていたが、本当に綺麗で柔らかいなぁ、と改めて思った。
「あと、これを」
と彼女は俺に鍵を一つ握らせた。
「なんだ? これは」
「存知ません。ただ、ずっと以前に御当主様が、篤様にもしものことがあったらお渡ししろ、と」
「ジジイがかよ……。わかった、もらっとく」
俺はその鍵を握ってタクシーのドアの前に立つ。
一度振り返って、遥香に言った。
「また来る」
「お待ちしております」
と言って彼女は綺麗な一礼をした。
そして俺は車中の人となった。
だんだんと小さくなっていく遥香と屋敷を見ながら、俺は彼女の苗字も歳も知らなかった事に気づいた。
それは今度帰って来たときに聞こうと思った。
日付はそれから3日を経過したと思いねえ。
俺は今まで一度も訪れたこともない地方の街にいる。
……あれからタクシーを降りたあと、俺はできる限り足跡を消すために、電車やバスやタクシーを乗り継ぎ、とりあえず家の影響下にない地方都市に出た。
そこで入ったビジネスホテルで改めて遥香にもらった鍵を確かめた。
それは、とある地方銀行の貸し金庫の鍵だった。
「これは……」
どうしても見付からなかったというジジイ(本当はこう呼んでいたのだ、いつだって)の遺言がそこにあるかもしれない……。
少なくともその手かがりぐらいは手に入る可能性は大きかった。
そんなわけで、慣れぬ街に戸惑いながらその銀行を探し当てた。
で、案内された貸し金庫には……
一束の古ぼけた権利書が入っていた。
だけであった。
「……」
祖父の遺書でもなんでもない。
ただなんの変哲もないの土地と建物の登記済証。いわゆる権利書という奴だ。
名義人がいつのまに書き換えられていたのか2年前に俺の名義に更新されていた事に、ジジイの意思をはっきりと感じられた。
しかし、だからこんなものがなんだというのか?
失望と徒労感に呆然とする自分を、案内してきた銀行員が怪訝そうに見るが気にしていられなかった。
とはいえ、いつまでも呆然と落ち込んでいるわけにもいかないのも確かであった。
家なし、縁故なし、資産なし、無職。
金はそれなりに用意しておいたが、収入がない身でいつまでももつというものでもない。
よく考えたら、年齢から言っても立場は家出少年と変わらないわけだ。
「あ、すいません。今まで預かっていただいてありがとうございました」
自分の惨めさと孤独を改めて感じながら、俺はそれを振り払うように権利書を受け取って、銀行を出る事にした。
少なくともここにいる意味は今の俺にある筈はなかった。
孤独や惨めさに浸りたいとしても、ここはそれに相応しい場所ではない。
……といった次第で、俺は流れ流れて月追町という、今までの人生からも、そしてこれからも知ることすらなかったであろう、縁もゆかりもない街にいるわけである。
理由は簡単で、とりあえず当面の行動のアテが、受け取った権利書にある地名しかなかったので、とりあえず何をどうするにしろその土地物件を確認しておこうと思っただけの事である。
それでどうしようと考えているわけでもなく、とりあえずジジイが自分のために最後の最後の遺産として用意しておいたものがなんなのか見ておこうと思ったのは、自分でもひねりがなさすぎると思うぐらい、自然な動きだったろう。
その後のことは、あとで考えよう。
よく考えたら、こんな無計画に日を過ごすのは、生まれて初めてのことかもしれないな。
月追台という小さな駅を降りると、目の前に広がる小さな商店街がそのまま駅の出口から続いていた。バスターミナルなどあろう筈もなく、ただ申し訳程度に駅前にはバス停とタクシー乗り場、自転車駐輪場が配置されている。
ぶらぶらしながら見渡して現れる景色は、薄汚れたネオンのパチンコ屋、地元企業の系列らしい垢抜けないスーパー、常連以外に入るのが躊躇われるような古びた喫茶店、酒屋から転身したのが丸分かりのコンビニ、店の外まで脂が染み出してそうな小汚い焼き肉屋、埃被ったサンプルが食欲をそそらない中華料理屋、中に佇む店番にやる気の感じられない天津甘栗の屋台……などなど。そんな駅前の景色は、俺の人生経験の中にまったく記憶にない筈なのに、妙に懐かしさを感じさせた。
つまり月追町は、どこにでもあるような典型的な小さな地方の町というわけだ。
さて権利書にある住所を、駅前にある落書きや黒ずんだガムのカス、削られた塗料などで飾られた町内の地図で確認する。
駅から歩いて10分ぐらいという、なんとも微妙な位置にあるらしい。
作品名:天井桟敷で逢いましょう 第一話 家の話 作家名:大澤良貴