ゆびきり
菜奈が八階のボタンを押すと扉が閉じた。狭い密室の中でふたりきり。男は緊張する。
「いきなりキスなんてしませんから、安心してください。」
そう云いながら赤面する彼の心臓の動きは、極度に活発だった。
「……期待してたかも……」
微笑む菜奈と中野は、短い距離の中で凝視め合っている。
「居酒屋で愉しく話ができたら、それでいいんです」
「実は、わたしもそうなんです。今日は居酒屋まで……」
「今日だけで、続きはなし。そんなに世の中は甘くない」
扉が開いたが、エレベーターの外には誰も居ない。そのときになって中野は菜奈を抱きしめたいと思った。その直後、隣のエレベーターが開いて数人のグループが勢いよく賑やかに通路に出てきた。
中野は菜奈の肩と背に手を伸ばし、壁際に導いて接触を避けた。
「中野さんは慣れてるのね。わたしは久し振りなの」
「同じです。普通の居酒屋でいいんですよね」
菜奈は中野の左腕を軽く掴んで歩いた。これは現実ではなく、夢なのだと中野は思う。しかし、徹夜明けの中野は疲れが急に出てきた気もする。意外な静寂の中、前方に派手なイルミネーションが見えてきた。