舞うが如く 第七章 1~3
23歳と言いますから、琴とは10歳は違うことになります。
また最年少となるのは、沼田城下から参加した咲という少女で、
真田の末裔にあたるという下級武家の一人娘でした。
上州の沼田と、信州の真田家との関わりは深く、
幸村の父の代より、3代にわたって統治をされた歴史が残っています。
沼田より吾妻の山中を貫いて、信州・真田へと至る山間の一本道は、
いまだに「真田道」と呼ばれており、六文銭の面影が、
いまでも色濃く漂っています。
明治5年(1872)2月に、
製糸機械の手配を終えたブリュナが、フランス人技師3名と
女教師4名を引き連れて、開業を待つ富岡製糸場へと戻ってきました。
これを受けて、政府は開業へ向けての工女募集を議決しました。
各府県に対して一斉に募集勧告を布達します。
しかし5月に至っても、工女募集に対する応募はまったくありません。
政府は、あらためて各府県に対して諭告書を発布しました。
7月にはいると、富岡製糸場ではすべての工事が完了して、
開業に向けたその準備などがすべて整いました。
富岡製糸場の初代場長となった尾高は、政府が5月に発布した諭告文に基づき、
娘の勇(ゆう)を差し出すことを決意します。
これにより、武州近隣の娘達が行動を共にする気運が生まれます。
こうして武州(埼玉県)秩父よりの娘たちの一団が、
富岡製糸場での入場の第一号となりました。
9月15日、工女募集に対する応募が少なすぎるために、
政府は東北各県に対して、さらに「繰糸伝習工女雇入心得」を通達します。
15歳から30歳までの女子、人員10人~15人までを、来る11月29日までに
差し出すようにというものでした。
これにより、各県でもしぶしぶながらも官吏や各藩士が、
自分の娘をさし出すことに応じはじめます。
10月4日、ようやくにして人員が整った富岡製糸場が、
その操業を開始しました。
作品名:舞うが如く 第七章 1~3 作家名:落合順平