舞うが如く 第六章 13~16
舞うが如く 第六章
(16)兄の決心
大久保利通を中心とする明治新政府にとって、
庄内地方は、天狗騒動やワッパ騒動などによる農民たちの反乱が相次いだため、
とかく目の上のこぶのような存在でした。
さらには、軍事組織を保持したままの松ケ岡農場などの問題もあり
とかくにつけて、やたらと問題が山積した地方のひとつです。
松ケ岡開墾場は、武士としての本職を失った士族たちの救済と再生の道を、
開墾に求めるという構想によるものでした。
しかし新政府は、東北の鹿児島と目されていた庄内地方を
常に警戒の目で見ていたのです。
この年(明治7年)新政府は、
ワッパ騒動の徹底的な弾圧のために12月に入ると、
鹿児島出身の三島通庸(みちつね)を
第二次酒田県令として任命し、庄内へ派遣しました。
県令となった三島は、同行した薩摩藩士6名を
側近として登用しました。
まずワッパ騒動にかかわる農民たちを治めることに全力を注ぎ、
鎮圧のために県内を奔走しました。
管内に通達を出してこれ以上、雑税や浮役
(臨時に課せられる雑税)について、
農民たちが騒ぎ立てることを厳禁としたうえで、
厳罰を持ってのぞみました。
農民たちへの対応では力を持って抑え込もうという、弾圧の姿勢が、
いっそう鮮明になりました。
しかしこうした一方で、今まで農民を苦しめてきた
雑税の多くが廃止されるなどの、譲歩された部分なども生まれてきました。
部分的にはなりますが、農民達の言い分が聞き入れられて、
若干の勝利を勝ち取ることもなりました。
ワッパ(弁当箱)に、一杯になるほどの過剰金を取り戻す闘争は、
一連の武力を用いた騒動から、世論に訴えて法廷で戦うという方向へ
その路線が変更をされました。
翌年の明治8年の1月からは、過納金の償還と相次いだ逮捕者の
釈放を求める法廷訴訟という合法的な闘争がはじまります。
酒田出身の民権家・森藤右衛門がその先頭に立ちました。
元老院や司法省に県の悪政を訴えつづけ、粘り強い法廷闘争は続きました。
ようやく1878年(明治11)になってから、雑税の一部をふくむ、
6万3千余円の返還を含む農民側勝訴の判決が出されました。
ワッパ騒動における農民たちのこうした結集と行動は、
酒田県政の改革や、地租の軽減に有効な影響を与え、
さらには、庄内における
近代の扉を開く契機にもなったようです。
作品名:舞うが如く 第六章 13~16 作家名:落合順平