モール・ヴィヴァン
「――いいや。どうか放っておいてくれ、このまま。こうして貴女と他愛なく話すだけでも、私にはもうずいぶん難しい」
滴るようにあかい目を見詰めたまま、やはり無意識のうちに、少女は冷たく凍えたランタンを胸に掻き抱く。
「でも、なんだかあなた、どこかお悪いように見えますわ。わたし、これから街へ行くんです。そこまでご一緒しませんこと」
そう言われて、男は眇めていた目を開く。
「こんな暗いところに、これ以上ひとりでいらっしゃるなんて」
彼女の言葉に、男は薄っすらと目を眇める。
「明るいところへなど、もう長らく行ったことはない」
彼は彼女のほうを向いたまま、やんわりと後退する。自身と同じくらい疲れきり、痩せ細った木を境にして。
「私が怖くはないのか」
「なぜ」
少女はランタンを抱いた両腕にわずかばかり力をこめた。目の前の人影は、いまにも木の陰に滑りこみ、そのまま消え去ってしまいそうに思える。
「人は――大抵の貴女がたは、私と私の同胞を恐れるからさ」
冷えた夜風が、少女の髪を舞い上げる。
双方の声が響くほかには、辺りはまるで、月の光が聴こえるほどに静かだ。
男は言った。
「それは多分に正しいことなんだろう。危険を悟るということのためには。――もうお行きなさい。見ず知らずの、こんな生き物に構っていないで。もっとほかの、貴女にとって価値のあるもののために」
彼女は静かに首を横に振った。
「いいえ。……わたしはついさっき、もっとずっと怖ろしいものを見てきました。一つの命の終わるさまを」
ランタンを抱えていた手を下げる。抱きしめる代わりに、取っ手を掴んだその指に白くなるほど力をこめて、
「わたしは、あなたを怖いとは思いません」
ひび割れ、空の投げる紫を反映した地面、その所々に生えた貧相な草が羽ばたくような音を立てる。そこから月を頼って浮かれ出る、幾羽かの蛾たち。白い燐粉がこぼれ落ち、宙を漂う。きらきらと、ほんのわずかな光を弾いて尾を引いた。
「あなたのほうにこそ、よほど、わたしを恐れる理由があるように思いますわ」
溜め息のような囁き。
男はわずかに眉をひそめる。少女は軽やかに笑った。薄紅を刷いた頬に、どこまでも屈託ない表情が浮かび上がる。
「……わたし、」
それらの煌めきと、さざやくような月の光と、ひとしい色をした少女の目がまばたく。
「人を殺してきましたの」
口先から漂った声は夜の冷たさのなかにゆらぎ、少女はまるで、自分の言葉に怯えたように肩を竦ませた――変わらず薄く笑ったまま。
「ほんとうについさっきのことですわ。――掴んだ刃物の手触りも、まだこの手に残っている。命というものが、どんなふうに沈んでいってしまうのか……それが、なにより取り返しのつかないそれが、信じられないほど呆気ないということも、わたしは知ってしまった。いまさら、正体のわからないなにかを恐れる必要は、わたしにはないの」
両腕をランタンごと下げたせいで、肩から包むようにかけていた、厚手の外套がゆるやかに解ける。その胸と、上腕部に華やかに散った、どす黒い染みの痕。
「ここを抜けて二つ先の街へ行けば、よその国へ行けるわ」
腰に吊り下がった、少女のすべてに不似合いな大きさ、長さのしなやかな剣が覗く。それは城や屋敷の壁を斜めに飾っているような類のもので、およそ実用に向いたものではない。柄には、彼女の身体に染みたそれと、同じ深度の黒いなにかがこびりついている。
武器であるにもかかわらず、酷く装飾的な、恐らくは血を浴びずに済むものとして造られた、稀有な兇器。美しさが錆びつけばそこで棄てられ、どんなものも殺さず、傷つけず、熔かされるはずだったろうもの。
闇を透かして、絡みつくようなヒルトが月を反映する。鞘のしたから刀身を滑らせることを、なまぐさく期待しているような銀の輝き。
「わたしが、こちらへ逃げるとは、誰も思わないはず。女が一人でこの荒野に逃げこむなんて。下働きの若い無学な女が、わたしがそんな智慧を持っているなんて、きっと、誰も考えない」
そこまで言って、彼女はふいに、驚いたように微笑んだ。
「……どうして、打ち明けてしまったのかしら? あなたに――こんなことを。一人殺して逃げるだけでも、わたしはこれほど傷ついたのに」
少女は折れそうな顔でなおも笑った。
彼女の見詰めたさき、男はなにを言い返すでなく、表情のないまま佇んでいた。痛ましいほどの沈黙。耳をろうするほどの。
そこで、彼女は周囲の物音が――鳥や虫たちの声、獣の発するごく微細な気配というようなものたち、それらの音がふっつりと消えていることに気付いた。しかし、果たしていつからそうなっていたのか、彼女には解からなかった。
やがて男が躊躇いがちに口を利いた。
「貴女はきっと、どこかでもう、死んでしまいたいと思っている」
機械的に剣の柄を撫ぜていた少女の手が、わすかに強ばる。
「なぜ?」
ぼんやりと、熱に浮いたような声で、彼女は言った。彼は一瞬、ためらったような様子を見せ、諭すような声で答えた。
彼の言葉に少女の目が透きとおる。
「死ぬことで――罰を受けることで、貴女はやっと、生きることができるから」
彼女は微笑み、それでは足りないと思ったのか、声をさせて笑った。変わらず軽やかで、屈託のない笑い方で。
「……仰る意味が解かりませんわ」
男は、変わらずくたびれきった風情でかぶりを振った。ずるりと、傍らの木に体重を預けてもたれかかる。
「そうするまでのどこかに、戻る手立てもなく、戻す方法もわからないから、ここで終わってしまおうと思っている」
それら一言一言を、男はいかにも苦心して口にしているのだ、という顔で連ねていった。
「そうね。……そうかも知れない」
言って、彼女は目を伏せた。出くわしてからこれまで、はじめて男の眼差しから目を離した。
「ここを通るのは、とても危ない。狼も野犬もいるし、身の毛もよだつ、人でないなにかの噂もたくさん聞いたわ。そんなところを、月がこんなに高くなってから歩くのですもの。……でも、そうなったら、それはそれだと思っていた」
顔を上げると、男は先ほどよりも数歩、彼女に近づいていた。どんな足音も気配も感じられなかった。
「人間の取り決めた罰のために死にたくはなかった。人殺しについての罰は受けましょう。いくらでも。でも、あの人を殺めなければならなかった、あのときのわたしの心は罰せない。……きっと誰も、わたしと同じことをしたと思うから。だって、殺さないでいられる人があって? あのけだもの――」
小さく、彼女の口から溜め息がもれた。長く夜風に当たっているために、身体は冷えきり、吐く息は透明で少しも白くはない。
「どうしてか、あなたにお礼を言いたいわ、わたし……ありがとう」
言って、彼女はいまだ手にしていたランタンを地面に落とす。カツン、と硬い音がして、横にはね、ガラスの砕ける脆い音がした。
ためらいがちに歩み寄り、ずり落ちかけた彼女の外套を、男がそっとかけ直す。やけに丁寧な、摘み上げるような仕草で。
「私も人を殺したことがある。もう何人も」
ふいに、男が言った。
風がやわらかく吹き抜けていく。さわさわと羽ばたく草の音。