モール・ヴィヴァン
モール・ヴィヴァン
1
木立もまばらな淋しい荒野を、かすかなともし火が足音を伴って、そっと横切ってゆく。月は青白い骨身をさらし、星は無数の飾り気のない装飾となって、空にばら撒かれていた。吹きすさぶ風が西の彼方から間断なく流れ抜け、昼の熱気を追い払う。ここには虫の声も、獣たちの息遣いもない。いつの頃からか頽廃した灰色の地面が、ゆうゆうと寝そべっているばかりだ。
手に提げた明かりのために、その持ち主の姿は、胸の辺りから茫と浮かび上がっていた。まだ少女と言って良いような年恰好。冷たい風に、線の細い薄色の髪が、優然とたなびく。わずかな炎光にふちどられた肌は、闇の色をまとって透きとおるように青い。長く散った睫毛のまばたく、金とも銀ともつかない薄っすらとした虹彩を、ちらちらとゆらしながら彼女は歩いていた。それは周囲を見回すと言うより、所在なげに、落ち着きなく動かしていると言うような様子だった。立ち枯れた木々は少しずつ数を増し、踏みしめる地面には、土に還る一歩手前の白茶けた草が茂るようになった。
その足取りはどこか散漫で、ふわふわと妙に危なっかしい――彼女は、小さくぼんやりと溜め息をついた。いまや月光は枝の影に追いやられ、無残に刻まれた姿で彼女を見下ろしている。彼女はかじかんだ指先を、ゆっくりと左右順々にランタンへかざしながら歩いていた。冷えた夜風に、白い息が流れる。ランタンの炎光の届くわずかな場所以外は、どす黒く沈むように身じろぎもしない闇ばかりが拡がっている。
死の沈黙――どこまでも満ち足りた、完璧な世界がそこにはあった。傲慢なほど気高いこの世界では、光と命は醜悪な異物でしかない。
少女は、目の前にあてどなく拡がる青黒の向こうに、夢見るような眼差しを向けていた。どこか、憑かれたような眼差しを。手にしたランタンの明かりと同じく、果敢なげな視線。
やがて、彼女はそのうちにようやく、痩せ細った木々の群れを抜け、いくばくか命の兆しのあるところへ出た。酷くかすかに、夜鳴き鳥の声が風をつたって耳朶にさざやく。どこか、深く夜の底を生きる獣どもの気配。それらはまだ遠く、わずかに届くばかりだったが、それでも荒野の果てを告げていた。
彼はそっと目を逸らした――無意識のうちに、その尋常でない視力でもって、彼に近づいてくる小さな明かりを目で追っていた。彼はその火の色を、純化された光の色をあくまで懐かしく胸に留めた。いまの彼にとってはいささか温かにすぎる、その色。
彼の魂から強く隔てられたその光のために、眼球の裏側がささくれだって焦げついている。数度まばたいて、破損したそれが剥がれるよう促す。数滴の涙のしたたりと共に、壊れた組織は廃棄されていった。
あの輝きはもう二度と手に入らない。光。明るいもの。それらはもう二度と戻っては来ない。
彼は傍らに立つ、衰えた木の幹に、軽く手のひらを押しつける。触れる瞬間、骨の浮いた指の根に嵌めた、いくつかの、黒く錆びついた指輪が、鈍く硬い音をさせた。
そうして彼のなかに、意識するより速く流れ去る、わずかの哀れみの念がわいた――これまで彼のために支払われてきた、そしてこの先も変わらず支払われるであろう、様々なものたちへの哀れみ――手を触れた木の乾いた肌が、そこを起点としてするすると褪せていった。
彼が必要とし、求め、奪い取ったものを失って、木は音もなく朽ちてゆく。
杯から杯へ。それまで木の内側を満たし、生かしていたものが、当てた手のひらを通じて彼に流れこむ。彼の持つ不完全な魂が、流れこんだものを飲み干し、彼の実存を支えるために軋みながら働く。彼はほんのいっとき、このひとときにだけ満たされる。彼の生半な不死性を成り立たせるために、それは永劫欠けたまま、飢え乾いたまま、肉体と言うよすがのなかに繋がれている。
彼こそは生ける死者――生命の根幹に深く関わり、そのために生来の一切を失ったかつての人だった。彼の不安定な生命は、ほかの命をすすって永らえる。むやみに引き延ばされたそれは、怖ろしいほど忠実に犠牲を欲した。ただ生きるために。その欲求の示すまま、魂は彼に糧を命じる。森を枯らし、傷もなく獣を縊り、ときによってはかつての同胞から、それをさらい取って生きてきた。もう年数も判らない。
(――水とはどんな味だったろう)
それを口にし、嚥下する感覚は。
味わうとはどんなものだったか。
彼はゆっくりとした動作で、干からびきった木肌から離れた。元からわずかな葉は縮み、黒ずんで、すえた臭いをさせている。嗅ぎ慣れた急速な腐敗の気配。
彼は数歩先の別の木に、歩み寄ってふたたびそっと手を当てる。
淡々とそれをくり返す。
彼女は軽く目を見張った。こんな場所で、こんな時分に、誰かに出くわすなどとは考えていなかった。
彼女は少しずつ歩調をゆるめ、月明かりの下に背を向けて立つ、俯いた影に呼びかけた。
「もし」
殆どうなだれるように木にもたれていた影は、彼女の声に身じろいだ。肩越しに、ほんのわずか振り返る。
「――もし、あなた。こんなところで、なにをしていらっしゃるのですか」
暗さのために細かな姿かたちは判らない。やわらかな色の髪に白い横顔、深い色の外套が風にゆれている。
相手の顔がもっとよく見えるようにと、彼女はもう数歩ほど近寄って、ランタンを顔の高さまで差し上げ――。
ふっと、ランタンのなかの、ガラスに守られた炎が掻き消えた。
彼女はかすかに息を呑む。声は上げなかった。それは、前触れもなく訪れた闇のためではなく、消える寸前の明かりのなかに見えた、相手の眼差しのためだった。
彼女は見た、光の失せる前の一瞬のうちに。対峙した男の、ガラスか何かを後から嵌めこんだような切れ長の双眸、それがまるで、血のしずくを垂らしたかごとくに《紅い》のを。
見間違えたわけではない。夜の沈黙のなかにも、あまりに生々しい虹彩。
「人を」
それはふいに口を利いた。彼女はかすかに震え、わななき、その音声を聴き取った。乾いて低くかすれてはいるものの、彼女が思っていたより、ずっと透明な声だった。
「人を待っていた」
薄い月の輝きに浮かび上がる顔立ち。答えたあとで彼女を見詰めたその眼差し、鮮やかな血の色の向こう側から、訴えかけてくる何かの意思を彼女は感じた――冴え冴えとした生々しいその輝きに反して、その視線はどこかうつろで、伽藍としている。そこにはただ、意思より原始的ななにかが横たわっていた。
男はどうしてか、酷くくたびれ、疲れ切っているように見える。
「……でも、こんなところで」
そっと言葉が口をついて出た。
「このようなところで、一体どなたをお待ちなのですか」
赤い目がゆれる。
「――誰でもない誰かを」
取りこぼすような口調。やっと絞り出したというような。
彼は外套の裾をはためかせ、彼女のほうに完全に向き直ってから言った。
「私を生かしてくれる誰かを」
すくい取り難い言葉を受けて、じり、と少女の足が半歩さがる。無意識の動作だった。
「……あなたを、生かす?」
「そうだ――」
呟くと、男はいかにも大儀そうにかぶりを振った。
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木立もまばらな淋しい荒野を、かすかなともし火が足音を伴って、そっと横切ってゆく。月は青白い骨身をさらし、星は無数の飾り気のない装飾となって、空にばら撒かれていた。吹きすさぶ風が西の彼方から間断なく流れ抜け、昼の熱気を追い払う。ここには虫の声も、獣たちの息遣いもない。いつの頃からか頽廃した灰色の地面が、ゆうゆうと寝そべっているばかりだ。
手に提げた明かりのために、その持ち主の姿は、胸の辺りから茫と浮かび上がっていた。まだ少女と言って良いような年恰好。冷たい風に、線の細い薄色の髪が、優然とたなびく。わずかな炎光にふちどられた肌は、闇の色をまとって透きとおるように青い。長く散った睫毛のまばたく、金とも銀ともつかない薄っすらとした虹彩を、ちらちらとゆらしながら彼女は歩いていた。それは周囲を見回すと言うより、所在なげに、落ち着きなく動かしていると言うような様子だった。立ち枯れた木々は少しずつ数を増し、踏みしめる地面には、土に還る一歩手前の白茶けた草が茂るようになった。
その足取りはどこか散漫で、ふわふわと妙に危なっかしい――彼女は、小さくぼんやりと溜め息をついた。いまや月光は枝の影に追いやられ、無残に刻まれた姿で彼女を見下ろしている。彼女はかじかんだ指先を、ゆっくりと左右順々にランタンへかざしながら歩いていた。冷えた夜風に、白い息が流れる。ランタンの炎光の届くわずかな場所以外は、どす黒く沈むように身じろぎもしない闇ばかりが拡がっている。
死の沈黙――どこまでも満ち足りた、完璧な世界がそこにはあった。傲慢なほど気高いこの世界では、光と命は醜悪な異物でしかない。
少女は、目の前にあてどなく拡がる青黒の向こうに、夢見るような眼差しを向けていた。どこか、憑かれたような眼差しを。手にしたランタンの明かりと同じく、果敢なげな視線。
やがて、彼女はそのうちにようやく、痩せ細った木々の群れを抜け、いくばくか命の兆しのあるところへ出た。酷くかすかに、夜鳴き鳥の声が風をつたって耳朶にさざやく。どこか、深く夜の底を生きる獣どもの気配。それらはまだ遠く、わずかに届くばかりだったが、それでも荒野の果てを告げていた。
彼はそっと目を逸らした――無意識のうちに、その尋常でない視力でもって、彼に近づいてくる小さな明かりを目で追っていた。彼はその火の色を、純化された光の色をあくまで懐かしく胸に留めた。いまの彼にとってはいささか温かにすぎる、その色。
彼の魂から強く隔てられたその光のために、眼球の裏側がささくれだって焦げついている。数度まばたいて、破損したそれが剥がれるよう促す。数滴の涙のしたたりと共に、壊れた組織は廃棄されていった。
あの輝きはもう二度と手に入らない。光。明るいもの。それらはもう二度と戻っては来ない。
彼は傍らに立つ、衰えた木の幹に、軽く手のひらを押しつける。触れる瞬間、骨の浮いた指の根に嵌めた、いくつかの、黒く錆びついた指輪が、鈍く硬い音をさせた。
そうして彼のなかに、意識するより速く流れ去る、わずかの哀れみの念がわいた――これまで彼のために支払われてきた、そしてこの先も変わらず支払われるであろう、様々なものたちへの哀れみ――手を触れた木の乾いた肌が、そこを起点としてするすると褪せていった。
彼が必要とし、求め、奪い取ったものを失って、木は音もなく朽ちてゆく。
杯から杯へ。それまで木の内側を満たし、生かしていたものが、当てた手のひらを通じて彼に流れこむ。彼の持つ不完全な魂が、流れこんだものを飲み干し、彼の実存を支えるために軋みながら働く。彼はほんのいっとき、このひとときにだけ満たされる。彼の生半な不死性を成り立たせるために、それは永劫欠けたまま、飢え乾いたまま、肉体と言うよすがのなかに繋がれている。
彼こそは生ける死者――生命の根幹に深く関わり、そのために生来の一切を失ったかつての人だった。彼の不安定な生命は、ほかの命をすすって永らえる。むやみに引き延ばされたそれは、怖ろしいほど忠実に犠牲を欲した。ただ生きるために。その欲求の示すまま、魂は彼に糧を命じる。森を枯らし、傷もなく獣を縊り、ときによってはかつての同胞から、それをさらい取って生きてきた。もう年数も判らない。
(――水とはどんな味だったろう)
それを口にし、嚥下する感覚は。
味わうとはどんなものだったか。
彼はゆっくりとした動作で、干からびきった木肌から離れた。元からわずかな葉は縮み、黒ずんで、すえた臭いをさせている。嗅ぎ慣れた急速な腐敗の気配。
彼は数歩先の別の木に、歩み寄ってふたたびそっと手を当てる。
淡々とそれをくり返す。
彼女は軽く目を見張った。こんな場所で、こんな時分に、誰かに出くわすなどとは考えていなかった。
彼女は少しずつ歩調をゆるめ、月明かりの下に背を向けて立つ、俯いた影に呼びかけた。
「もし」
殆どうなだれるように木にもたれていた影は、彼女の声に身じろいだ。肩越しに、ほんのわずか振り返る。
「――もし、あなた。こんなところで、なにをしていらっしゃるのですか」
暗さのために細かな姿かたちは判らない。やわらかな色の髪に白い横顔、深い色の外套が風にゆれている。
相手の顔がもっとよく見えるようにと、彼女はもう数歩ほど近寄って、ランタンを顔の高さまで差し上げ――。
ふっと、ランタンのなかの、ガラスに守られた炎が掻き消えた。
彼女はかすかに息を呑む。声は上げなかった。それは、前触れもなく訪れた闇のためではなく、消える寸前の明かりのなかに見えた、相手の眼差しのためだった。
彼女は見た、光の失せる前の一瞬のうちに。対峙した男の、ガラスか何かを後から嵌めこんだような切れ長の双眸、それがまるで、血のしずくを垂らしたかごとくに《紅い》のを。
見間違えたわけではない。夜の沈黙のなかにも、あまりに生々しい虹彩。
「人を」
それはふいに口を利いた。彼女はかすかに震え、わななき、その音声を聴き取った。乾いて低くかすれてはいるものの、彼女が思っていたより、ずっと透明な声だった。
「人を待っていた」
薄い月の輝きに浮かび上がる顔立ち。答えたあとで彼女を見詰めたその眼差し、鮮やかな血の色の向こう側から、訴えかけてくる何かの意思を彼女は感じた――冴え冴えとした生々しいその輝きに反して、その視線はどこかうつろで、伽藍としている。そこにはただ、意思より原始的ななにかが横たわっていた。
男はどうしてか、酷くくたびれ、疲れ切っているように見える。
「……でも、こんなところで」
そっと言葉が口をついて出た。
「このようなところで、一体どなたをお待ちなのですか」
赤い目がゆれる。
「――誰でもない誰かを」
取りこぼすような口調。やっと絞り出したというような。
彼は外套の裾をはためかせ、彼女のほうに完全に向き直ってから言った。
「私を生かしてくれる誰かを」
すくい取り難い言葉を受けて、じり、と少女の足が半歩さがる。無意識の動作だった。
「……あなたを、生かす?」
「そうだ――」
呟くと、男はいかにも大儀そうにかぶりを振った。