モール・ヴィヴァン
彼は骨を折って、どうやら笑顔のようなものを作った。
少女は静かにまばたき、数秒の間、息を詰めた。半ば闇にまぎれた彼の髪が、長く垂らした彼女の髪が、夜風にゆれる。夜露を含んだ空気はかすかに甘い。
彼女はそう言った男の目を見上げる。
「貴女と同じように。ひとつたしかに言えるのは、私たちのどちらも、最初は望んでそうなったと言うことだ。貴女は、自分を救うために。私は」
彼はそこで言葉を切った。目を閉じる。俯く。感情の薄いその顔をよぎる、わずかな逡巡。
「――生きるために。私はただ生かされたかった、けれどそれは、」
そこまで言って、彼は、言葉の代わりに細い血の筋を吐いた。その赤みと同じ色の目が、不思議そうに見開かれる。
「ごめんなさい」
やわらかな声で彼女は言った。懐から引き抜いた短刀が、男の咽喉笛に突き刺さっていた。骨の浮いた、男の痩せた指さきが、震えながらその傷をなぞる。
「わたしのなかに響くなにかの声が、一人も二人も罪深さはひとしいと、そう嘯くの。知られたからには、生かしてはおけないでしょう?」
彼女は微笑み、やさしい手つきで、目の前にある彼の額をゆっくりと撫ぜた。血糊に濡れた指先が、その希薄な色の髪にべったりと痕をつける。男の眼差しが力を失い、ぼやけた。
「あなたのことは忘れないわ、やさしいひと。わたしに言ってくださった言葉たちも」
――と。
彼の手が、額を撫ぜる少女の手を掴んだ。強く。痛みを感じるほど。彼女は顔色を変えて、男を見る。
「なに……」
ふと男が、ごぼごぼと湿った音をさせた。深く、大きくひしゃげた笑い声を上げているのだった。少女はおののきながら身を引こうとし――しかし、掴まれた手のために身動きが取れない。
「私も貴女のことは忘れないだろう」
不明瞭な声で男が言った。
「誰でもない誰か――見逃すつもりでいたものを、そうさせなかったのは貴女だ」
低くかすれた、木の洞に響く風のような声。嵌めこんだような両目の赤が、どろりと粘度を増す。
透きとおった悲鳴。
そのあとのことは誰も知らない。
2004.8.29