舞うが如く 第六章 10~12
ところが、第2次酒田県は、
政府が石代納を認めたにもかかわらず、
これを領土内には一切、普及徹底をさせません。
相変わらず年貢時代のように、米での納入を継続させました。
さらに雑税も強制したまま、旧庄内藩の支配層と一部の旧藩士たちによって
米の独占的な流通機構づくりまでをも企てました。
第2次酒田県は、こうした企てを通じて
地主や農民たちによる米の商品化の道を断ったばかりか、
物納された米の価格と地租との差額分を、その懐に入れてしまいます。
こうした不公正や不正が、県の役人たちのすべてに
およぶようにもなりました。
高すぎる地租への不満が、
地主や農民たちの間で時間と共に鬱積をします。
暴動は、1873(明治6年)の、11月にはじまりました。
まず田川郡・淀川村の佐藤八郎兵衛、同郡・片貝村の
鈴木弥右衛門を代表とする
「石代納願」が戸長(こちょう:旧大庄屋)へ提出をされました。
こうして始まった「石代納」を求める運動が、
一気に田川郡内の各村を席巻して、
それは飽海郡にまでも広がりをみせました。
さらに、要求はこれだけにとどまらず、
県官の不正追求という方向にへも、農民の運動が展開をしました。
翌年に入ると、1月には、櫛引・山浜通りの村々の農民も
石代納を戸長に願い出ました。
県はこうした運動の進展を抑えるために、2月には、
こうした運動の先頭に立つ、
佐藤八郎兵衛ら指導者数名を検挙してしまいます。
しかし勢いは、一向にとどまりません。
上清水村(現鶴岡市上清水)や、高坂村(現鶴岡市高坂)の農民達は、
3月と4月の二度にわたって、代表を上京させました。
警察・地方行政・土木などを統括する役所である、内務省にたいして、
「石代上納嘆願書」を提出すると共に、
己(おのれ)の士族的特権を守るために、
政府の打ち出す施策を隠し続けている第2次酒田県政の
悪政を訴えて出ました。
その結果、同年の7月16日に、
内務省の小丞松平正直(後の宮城県令)が來県して、
詳しい調査をはじめました。
佐藤八郎兵衛らを出獄させるとともに1874(明治7)年からの
石代納の実施と、一部雑税の廃止を県に命じます。
この命令をもとに、田川郡・上清水村の白幡五右衛門が、
酒田の酒造業者・森藤右衛門と提携して、7月中に農民の利益となる
石代会社設立を計画しました。
会社は、農民から集荷した米を大阪などへ独自の販路で販売して、
政府に金納した残金を、農民に返金するという仕組みになっていました。
しかしこの計画は、またもや酒田県によって拒否をされてしまいます。
それでも、農民たちの運動はひるみません。
続いて農民達は、旧藩以来の雑税の廃止を運動の前面に掲げました。
その取立てに当たる村役人(区長・戸長・村長など)に帳簿の公開を求めます。
8月に入ると、運動は旧黒川組(現鶴岡市櫛引)や、旧青竜寺組(現三川町)・
旧淀川村を中心に、横に大きく広がりを見せはじめ、打ち壊しも発生するなど、
次第に暴動化をして、その動きは、やがて最高潮へと達します。
作品名:舞うが如く 第六章 10~12 作家名:落合順平