舞うが如く 第六章 7~9
大泉藩はこうして生き残った旧支配体制を維持しながら、
外国船を購入したり、交易や外国商人との生糸貿易など活発化させ、
独自の経済政策をとり続けます。
また新政府には反発と抵抗を続けながらも、薩摩の西郷隆盛には、
急速に接近するようにもなりました。
そののちに大泉藩は、
1871(明治4)年7月14日の「廃藩置県」によって「大泉県」と変わり、
藩知事の酒井忠宝が免ぜらたために、
ようやく藩体制は消滅することになりました。
しかし同年の11月2日になると、政府の直轄地であった
「第1次酒田県」・「大泉県」・「松嶺県」の3県が合併をして
庄内の全体を県域とする「第二次酒田県」が誕生をします。
ここへ再び、松平親懐が大参事、菅實秀が権参事として就任をしたのをはじめ、
県官吏のほとんどへ、旧大泉藩士幹部たちが返り咲いてしまいました。
こうして再び、旧庄内藩がその職域を独占することになります。
開墾が進んだ「松が丘」では、
その2年後となった明治7年の春になると、約五五〇〇〇〇本の桑の木が
一斉に新芽を葺き始めるようになりました。
また養蚕技術の実習のために、上州・島村の養蚕農家へ
17名が派遣をされます。
70日間の実習ののち、6月の末に一団が帰郷をすると、
ただちに、蚕室の建設が始まりました。
島村にあった2階建ての構造を摸した蚕室、4棟があいついで完成をします。
内部の通気と換気のために、屋根の上に通気口の櫓をもつこの建物の瓦には、
取り壊しが決まった鶴ヶ岡城の瓦が再利用をされました。
新政府による、廃藩置県が進む中、
山形県の内部では、旧庄内藩主・酒井家がさらに巧妙に、
生き残りのための策をめぐらします。
武装解除はしたものの、旧庄内の武士集団を存続させるために、
松が丘開墾場の開拓民に姿を変えさせて、
それらの兵力の温存を計りました。
やがてこの武士集団が、
その威力を発揮するときがやって来ます。
大凶作に端を発した農民たちの騒動が、庄内一帯を覆い尽くす時が
まもなくやってきました。
明治時代における、自由民権運動のはしりとも言われる、
「ワッパ騒動」の始まりです。
作品名:舞うが如く 第六章 7~9 作家名:落合順平