HOPE 第五部
沙耶子のピアノの才能は、この人からというわけか。
部屋を見回すと、中心にはピアノ、壁には幾つもの楽器が据え付けられている。
「そういえば、ここで何か音楽関係の仕事でもするんですか?」
「ええ、そのつもりです。ピアノ教室でも始めようかと」
「そうですか」
俺は立ち上がる。
「そろそろ、帰ります。今日はありがとうございました」
「いえいえ。ああ、そうだ。よかったら、これを食べて行って下さい」
クッキーと紅茶を差し出された。
俺は苦笑しながら、渋々とそれを食べた。
♪
気が付けば、フリーター生活にもだいぶ慣れていた。
バイトの幅を増やす為に、車の免許まで取った。
仕事以外で、あまり乗る事はないのだが。
そういえば、隼人は大学に進学し、現在は大学一年生だ。
俺も、高校に生き続けていれば、大学へ進学できたのかもしれない。
いつもの様にバイトを終え、沙耶子のいる病室へ行った。
やはり見る光景はいつもと同じ。
ベットの上で穏やかそうに眠る沙耶子の姿。
それだけだ。
「……沙耶子……」
そう呟いた時だ。
彼女の目が、ゆっくりと開いた。
俺は驚きの余り、看護婦の呼び出しブザーを押す事も忘れていた。
「沙耶子……良かった。本当に良かった!」
喜んでいる俺を余所に、沙耶子は虚ろな目で俺に問う。
「あなた……誰?」
何もかもが、うまくいくとは限らない。
沙耶子は、今までの記憶を失っていた。
隼人は、そんな沙耶子を見て悲観していた。
俺が、しっかりしなくては。
そう思った。
俺が折れたら、沙耶子は誰にも救われない。
数年間、使われる事のなかった沙耶子の体は、リハビリなしに動ける様な状態ではなかった。
彼女のリハビリを終えた後、沙耶子は隼人の家で、彼の妹として暮らす事になった。
俺も、隼人も、それを望んでいたから。
二週間程して、沙耶子は再び高校へ通う事を決意した。
勿論、学校は沙耶子が以前通っていた所だ。
沙耶子にとって、知り合いも誰もいない学校。
良い友達が出来ると良いのだが……。
沙耶子には今までの記憶がない。
俺や隼人にとって、それは悲しい事だ。
しかし、沙耶子にとっては今の生活が幸せな筈。
なら、今のままで良いのではないだろうか。
そんな考えが浮かんでいた。
隼人の話によると、沙耶子にとって目標ができたそうだ。
宮村想太という彼女の先輩で、放課後に二人でピアノとヴァイオリンを演奏しているという。
良かった。
沙耶子にとって、頼りになる人が出来たのなら安心だ。
地元のファーストフード店で、偶然にも蓮に会った。
二人で椅子に座り、ポテトを摘まむ。
「久しぶりだな、綾人。今は、何をやってるんだ?」
「バイトだ。でも、沙耶子の目が覚めたから、少しだけバイトの量を減らしたんだけどな」
「そうか。本当に良かった。沙耶子ちゃんの目が覚めて。じゃあ、晴れて感動の再会ってわけか」
蓮はニヤニヤしながら俺を見る。
「ああ。そうだな……」
言い出せなかった。
今、俺や沙耶子が置かれている境遇。
そして、隼人の存在を。
本当の事を何も話せない。
そんな自分が、情けなくて憎らしくて仕方がなかった。
それぞれが穏やかに日常を過ごしている。
そんな矢先、悲劇は起こった。
沙耶子が学校からの帰り道に不審者に襲われ、病院に運ばれたという知らせが入った。
俺は急いで車を走らせ、病院へ向かった。
幸い、命に別状はなかった様で、外傷は擦り傷程度だった。
しかし、沙耶子と一緒にいた彼女の先輩、宮村想太は肩に重傷を負ったらしい。
暫くして、沙耶子が目を覚ました。
しかも、彼女の口振りから察するに、記憶は完全に戻っていたのだ。
医者の話では、何か大きなショックを受けると、忘れていた記憶が戻る事があるという。
病室のベットで沙耶子は半身を起こし、俺にしがみ付いた。
「……怖かったよ」
沙耶子の声は震えていた。
余程、怖かったのだろう。
俺の体にしがみ付く彼女の頭を、優しく撫でてやった。
沙耶子は昨日あった事について、何かを語る事はなかった。
昨日の夜、二人を襲った不審者の事も分からないうちは、沙耶子を一人で外に出す訳にはいかない。
時計を見ると、バイトの時間が迫っていた。
隼人の携帯に、沙耶子の事を伝え、俺は病院を後にした。
バイトを終え、沙耶子の事を確認する為に隼人に電話を掛けた。
数回のコールが鳴る。
しかし、隼人が電話に出る事はなかった。
いつもなら、すぐに電話に出てくれるというのに、一体どうしたのだろう。
根拠のない、それでいてとてつもなく嫌な予感がした。
病院へ行くと、沙耶子は眠っていた。
看護婦の話によると、突然気が狂ってしまい、鎮静剤を打って大人しくさせたそうだ。
更に、病院のどこを探しても隼人が見つからない。
携帯に電話を掛けても、繋がる事はかった。
「どこに行ったんだよ……隼人……」
隼人が死んだ。
その唐突な知らせが俺の耳に届いたのは、一週間後の事だった。
♪
精神的な治療やカウンセリングを終え、沙耶子は退院した。
それは二月の中旬の事だった。
病院の入り口に車を停車し、俺は沙耶子を迎えた。
「退院、おめでとう」
「うん、ありがとう」
沙耶子は、あの日以来、笑う事はなくなった。
そんな沙耶子の目は、どこか虚ろだった。
隼人の住んでいた家に沙耶子を送り、俺は自分の家に帰宅した。
悲しくてたまらなかった。
たった数年間で、俺達は大切な物を失くし過ぎたから。
数日後、沙耶子に電話を掛けた。
「ピアノ教室?」
「ああ、行ってみないか? ここから近いし」
先日、沙耶子は学校を辞めた。
このままではいけないと思った俺は、沙耶子の祖母が経営するピアノ教室へ、彼女を連れて行く事を考えたのだ。
勿論、沙耶子はそこに自分の祖母がいる事なんて知る由もないが。
その家の表札は、『ピアノ教室』という看板で隠されていた。
俺達がここに来る事は予測済みだったのだろうか。
『どうぞ。上がって下さい』
スピーカーから聞こえる声に言われた通り、俺達は家に上がった。
部屋の中は、前に来た時と何も変わっていなかった。
「そこに座っていてください」
奥の部屋から、老婆の声が聞こえた。
言われた通り、俺達は窓際の椅子に座る。
「ちょっと、待っていて下さいね。今、飲み物とお菓子を持って来ますから」
なんとなく、分かっている。
あの人の出す物といえば、あれしかない。
「おまたせ」
トレイには、やはりあの苦い紅茶とクッキーが乗っている。
俺は軽く溜息を吐き、沙耶子の事を話した。
老婆は察してくれたのか、自分が沙耶子の祖母であると感付かれる様な言動は見せなかった。
そんな二人の会話を、俺は黙って聞いていた。
「今、ここで教わっている生徒は、まだ四、五人しかいないんです。あなたの様な経験者がいてくれると、私にとっての音楽の幅も広がって、とても助かるんですよ。どうでしょう? 暫くはお試しという事で」