HOPE 第五部
「良いんですか?」
「ええ、勿論」
「ありがとうございます!」
沙耶子は、とても嬉しそうだ。
こんな彼女を見たのは久しぶりだ。
「それでは、明日からここに来てください。他の生徒さんとも、顔を会わせたいので」
「はい!」
いつか、沙耶子は気付く日が来るのだろう。
この老婆が、自分の祖母だという事に。
友人や恋人とは違う、自分にとって最も近い存在。
家族。
きっと、沙耶子はその温もりを知る筈だ。
♪
数日分の洋服や必需品の入った旅行鞄と、大金の入った分厚い財布。
戸締りを確認し、自宅を後にした。
降り注ぐ日射しは、夏の訪れを予感させている。
今日、俺は雫に会いに行く。
ようやく決心が着いたのだ。
いや、もしかしたら、ここ数年で失くした物が多過ぎて、寂しくなっただけ。
だから、そんな寂しさを紛らわす為だけに会いに行くのかもしれない。
本当のところは、自分にもよく分からない。
新幹線に乗り三時間程。
その後に数本の電車を乗り継ぎして、目的地に着いた。
駅から出ると、すぐ側に海が見えた。
とてもよく潮が香ってくる。
見渡した海はどこまでも広がっていて、向こう側には水平線が見えた。
「たしか、駅に迎えが来てる筈……」
辺りを見回すと、一台の車が海沿いの道路に停まっている。
赤くてコンパクトな外車。
たしか、あれは親父が使っていた愛車だ。
駆け寄ってみると、やはり側には親父がいる。
「親父」
俺が呼ぶと、彼はこちらを振り向く。
「おう、ようやく来たか」
「どうして、ここにいるんだよ? 野球はどうした?」
「休養だよ。まあ、お前を屋敷に送ったら東京戻るけどな。とりあえず、乗れよ」
俺は親父の隣の助手席に座った。
外車ならではの激しいエンジン音が掛かり、海沿いの道路を走る。
「なあ、親父。どうして、ここにいるんだ? 家に案内する為だけに、ここに休養を貰って来たんじゃないんだろ?」
「まあな。久しぶりに、お前に会いたかったんだ。雫にも最後に会っておきたかったからな」
雫。
きっと、もう長くはないのだろう。
「あいつ、元気にしてたか?」
「ああ、元気だったよ。後先が短い事を知っていても、あいつは頑張っていた。綾人、お前に会う為にだ。他にも理由はあるがな」
他の理由。
そんな事は気にならなかった。
ただ、俺の事を考えてくれていた。
それだけで充分に嬉しかったのだ。
車で着いた場所。
そこは大きな敷地を占める館だった。
海沿いにある為、とても日当たりが良い。
親父は門の前で車を停めた。
車から出ると、気持ちの良い潮風が頬を撫でた。
「ここが、雫が療養中の……」
「ああ、そうだ。ここは街から外れているが、少し歩けばコンビニやスーパーもある。買い物をする時は、そこへ行け。まあ、家政婦がいるから必要はないと思うが」
「分かったよ」
「じゃあ、俺は東京の方へ戻るから。後は頼むな」
そう言うと、親父は車で海沿いを走って行った。
「ここに……雫が……」
門を開け庭に入った。
女優の母親とプロ野球選手の父親。
その実力は、こんな屋敷一つを簡単に手に入れてしまう物なのだ。
石で固められた道は、真っ直ぐに玄関に続いていた。
玄関で、インターホンを押す。
少しの間が空き、立て開きの大きなドアが開いた。
玄関には年的に四十程の女性がいる。
おそらく、家政婦だろう。
「烏丸綾人様ですね?」
「はい」
「雫様がお待ちかねです」
上の階の一番奥の部屋に案内された。
「どうぞ」
とだけ言うと、家政婦は持ち場へ戻ってしまった。
ここに数年間もの間、想い続けた雫がいる。
ドアノブに手を掛け、ドアを開けた。
部屋に入った瞬間、一人の少女と目が会った。
ベットに座り、半身だけを起こしている。
長くて黒い髪、白くて細身な容姿。
それらは、どうしてか沙耶子の面影を連想させた。
それでも、ここにいるのは雫だ。
「雫……」
雫は一瞬だけ驚いた様な顔をして、俺に微笑んだ。
「お帰り、お兄ちゃん」
彼女の言葉を聞いた瞬間、涙が溢れて来る。
視界が歪む。
「おいで。お兄ちゃん」
俺は彼女の胸に飛び込み、泣いた。
今までの悲劇。
雫の妊娠と中絶。
沙耶子の受けた虐め。
それを機に俺が起こした暴力沙汰。
沙耶子が屋上から落ちた事。
光圀の一件。
隼人の死。
そして、沙耶子との決別。
それら全てを吐き捨てる様に、涙と共に流す様に、俺は声を上げて泣いた。
「辛かったんだね。でも、もう辛い思いはしなくて良いんだよ」
「ああ……そうだな」
かつて、俺は何もかもを失った。
でも今は、ここに雫がいる。
雫だけが、俺にとっての最後の希望だ。
いつかは俺の前からいなくなってしまうのだろうけど、今だけは一緒にいよう。
遠くない未来、雫の死が俺達を分かつまで。