HOPE 第五部
だから俺は、彼に沙耶子とお揃いのリストバンドを託した。
俺は、彼に沙耶子を託したのだ。
♪
学校で、退学届を提出した。
沙耶子の入院費の為に、幾つかバイトをしなくてはならないからだ。
沙耶子には身内がいない。
だから、俺がやるしかないのだ。
平野も、学校を辞めてバイトをしたいと言っていたが、俺が止めた。
こんな苦労をするのは、俺だけで充分だから。
学校側は、俺を止めなかった。
しかし、部活側はそうもいかないようだ。
特に蓮は……。
「どういう事だよ!?」
蓮は俺に詰め寄る。
「沙耶子の為だ。仕方ないんだ」
「お前、どうかしてるぜ!」
「……すまない」
「どうして謝ったりするんだよ!? お前らしくねぇよ!」
蓮は今にも泣き出しそうだ。
当然か。
中学から、今までずっと一緒に野球をしてきたんだから。
泣き出しそうな蓮の横に、先輩が一人分け入って来た。
鈴木先輩だ。
「烏丸綾人……。俺はお前が学校と部活を辞める事を、止めはしない。でも、勝ち逃げは許さない」
「勝ち逃げ?」
訊き返す俺に、鈴木先輩は苦笑する。
「覚えていないのも仕方がないか。一昨年の夏。俺が中学三年生の時の夏だ。バッティング練習で、お前は俺のボールを打った」
「あ!」
確かに、かつてそんな事があった。
投球を討たれた時の鈴木先輩の表情はよく覚えている。
楽しそうに笑っていたのだ。
「勝負だ。烏丸」
投球三本勝負。
俺はホームベースでバットを構えた。
周りでは、野球部の全員が俺と鈴木先輩の勝負を見物している。
キャッチャーには、蓮が着いてくれた。
鈴木先輩は大きく振りかぶる。
速球が蓮のキャッチャーミットに入る。
速い。
中学時代と比べると、格段に速さが増している。
二球目。
俺はバットを振った。
しかし、その速球は、また真っ直ぐにキャッチャーミットへ入る。
三球目。
ボールの見送りは終わりだ。
この一級に賭ける。
速球が飛んで来る。
俺が力強くバットを振ると共に、鋭い金属音がグラウンドに響いた。
鈴木先輩は、やはり負けたというのに笑っている。
「あいがとう。もう、悔いはない」
「そうですか。俺は、今日までずっと野球をしてきました。でも、もう終わりです。楽しかったです」
鈴木先輩に一礼した。
立ち去り際に、ふてくされた様な蓮の肩に軽く手を置き「じゃあな」とだけ言って、その場を去ろうとした。
「綾人!」
後ろから、蓮が俺を呼ぶ。
振り返ると、蓮は俺にボールを投げる。
「ぅお!」
素手で硬式ボールを取った為、手がじんじんと痛んだ。
蓮は頬に涙を伝わせ、叫んだ。
「いつか、また野球するぞ! 絶対に忘れんなよ!」
あいつ、昔から子供っぽい所はあったけど、泣き出した所なんて初めて見たなぁ。
「ああ! その時はよろしくな!」
泣きながら叫ぶ蓮に、不器用ながらも俺は思いっ切り笑ってやった。
スーパーの裏方、コンビニの店員、出版社の原稿回収、引っ越し業者のバイト。
特に、深夜のコンビニは大変だ。
時々、立ちの悪い不良共が店内を荒らしに来るのだ。
そういう奴等と暴力沙汰を起こして、もう何件かはバイトをクビになっている。
それでも、俺はまた新しいバイトを探す。
そんな事の繰り返しだ。
引っ越し業者のバイト先での事だ。
その日は、午前中だというのにとても日射しが強く、肉体労働をするにはかなり厳しかった。
業者の大型トラックには、棚やソファー、ピアノと幾つもの楽器類がある。
いったい、引っ越しする人はどんな人なのだろう。
引っ越し先の家に着くと、一人の老婆がいた。
見た感じ、七十過ぎだろうか。
「ああ、業者の方ですか。お願いしますねぇ」
老婆の家は、わりと大きく広かった。
業者の先輩と、幾つかの家具や楽器、ピアノを家の中に運び、作業が終わった頃には午後になっていた。
「皆さん、疲れたでしょう。どうぞ、上がって下さいな」
俺や業者の先輩は、老婆の家に上げて貰った。
そこで茶菓子が出された。
クッキーと紅茶だ。
「ありがとうございます」
俺達は、そう言ってクッキーに手を出した。
苦い。
食べて後、すぐにそう思った。
こんな苦いクッキーは初めて食べた。
口直しに、紅茶を一杯だけ飲んだ。
「うぅ……」
これも苦い。
お年寄りは、こういうのが好みなのだろうか。
手続きや書類上の処理をし、俺達はトラックに戻った。
トラックを運転するのは先輩の役目だ。
車の中にいる間、俺は書類に目を通す。
書類を見ていると、知っている名前がある事に気付いた。
宮久保。
さっきの老婆の名字、宮久保っていうんだ。
沙耶子と同じ名字。
沙耶子の名前が浮かんだだけで、なぜか胸が痛んだ。
とある休日。
この日はバイトがなかった。
先日の宮久保という名字の老婆の家。
俺はそこに来ていた。
インターホンを押し、家に上げて貰う。
老婆は茶菓子をテーブルの上に置く。
やはり、先日食べたクッキーと紅茶だ。
俺は、それに手を付ける事なく話を切り出した。
「あの、一つ訊きたい事があるんですけど……。もし、間違っていたらごめんなさい。すぐに帰りますんで」
「先日の業者の方でしょ? どうしたんですか?」
「あなたの親類に、宮久保沙耶子という女の子はいませんか?」
老婆は表情を変えず、動揺する事もなく答える。
「ええ。いますよ。沙耶子は、私の孫娘です」
「えぇ!?」
動揺してしまったのは俺の方だった。
確か、沙耶子の日記には祖母の事も書かれていた。
失踪したと。
「じ、じゃあ、沙耶子の居場所も知っているんですか? 沙耶子の境遇も?」
「ええ、知っていますよ。ここからすぐ近くの病院で眠っているんでしょう」
「どうして、そんなに落ち着いていられるんですか?」
沙耶子の保護者は家庭内暴力を振るい続けた、あの義理の母親だけだった。
それなのに、どうしてこの人は、今まで沙耶子に会う事すらしなかったんだ。
「今まで、何をしていたんですか? 沙耶子をほったらかしにして」
老婆は少しだけ考えて、口を開いた。
「信じていますから。沙耶子ちゃんの事を。
私達、宮久保の家は、かつてはとても大きな
富豪だったんですよ。でも、私の息子。沙耶子の父の企業の失敗により、会社は倒産。沙耶子の父と母は、共に自殺してしまいました。この街には、宮久保の遠い親類がいたんです。だから、沙耶子に人並みの生活をさせてあげるには、その人に預けるしかなかったんです。私がいると、向こうの家にも迷惑が掛かってしまいますからね。だから、失踪したという理由で、かつてお世話になっていた大阪の音楽教壇に居座っていました」
「それで先日、ここに引っ越して来たんですか……」
「ええ、そうです」
この人も、今まで苦労していたんだな。
「沙耶子、とても頑張っていました。中学の頃の文化祭では、ピアノ伴奏までして」
「へぇ。あの子がピアノの伴奏を。それじゃあ、私があの子にピアノを教えたのも、無駄にはならなかった様ですね」
なるほど。