HOPE 第五部
「なあ、そろそろ話してくれないか? その……傷の事……」
沙耶子は俺に背を向ける。
その瞬間、強い温風が吹き抜けた。
「知りたい?」
「ああ。それで、俺がお前の力になれるかもしれないから」
「……今回ばかりは、どうにもならないと思うの」
「どうして?」
「だって……」
彼女は俺の方へ向き直る。
「全部、私が悪いんだから」
沙耶子の左手首にある傷の原因。
やはり前に聞いた噂通りだった。
今の母親への、自分だけが生き残ってしまった罪悪感。
それが沙耶子の腕に自ら傷を作らせていたのだ。
「最近……母さんからの暴力が毎日の様に続いている。でも、それはしょうがない事だと思ってる。だって全部、私が悪いんだから」
「そんな事……」
俺が喋り出した瞬間、沙耶子は大声で叫ぶ。
「全部、私が悪いの!」
彼女はブレザーを脱ぎ、ブラウスの前ボタンを外した。
白くて細い体。
そこには幾つもの痣や傷痕が浮かび上がっていた。
「これ……」
「母さんに付けられた傷」
体に浮かび上がる線状になっている痣を、沙耶子は鎖骨から胸の下に掛けてなぞる。
「これは、縄で縛られた痕」
「……」
「これは瓶で殴られた痕」
「……」
「これは母さんが連れて来た男の人に、襲われた痕」
震える声で俺は言う。
「やめろ」
俺の言葉を無視して、彼女は続ける。
「痛くて、辛くて、苦しくて」
「やめろ!」
「それでも、しょうがない事なの」
苦悩の言葉を連呼する沙耶子の体を、俺は優しく抱いた。
「無理する事はないんだ! 俺の家で、一緒に暮さないか? そうすれば、辛い思いをする事もない」
「……」
沙耶子は無言で俺を引き離す。
「?」
「ありがとう」
沙耶子は笑っていた。
しかし、とても苦しそうに見えた。
互いの関係がギクシャクしたまま、俺達は中学を卒業した。
これから入学する高校に想いを馳せる時期に、俺達は悲しくて辛い経験をした。
蓮、沙耶子、美咲。
俺達が再び、笑い合える日は来るのだろうか。
♪
高校へ入学しても、中学の頃とは何も変わりはなかった。
ただ、沙耶子がいないだけ。
それでも、彼女はたまに俺に会いに家に来てくれる。
最近、野球とそれだけが楽しみだ。
二人で食卓を囲み、互いの学校の話をした。
「そっちの学校は、どうなんだ? 楽しいか?」
「うん。新しい友達もできたし」
沙耶子の新しい友達。
変な奴じゃなければ良いんだが。
「変な奴とは関わるなよ?」
「大丈夫。平野隼人君っていうんだけど、とっても優しい人なの」
「え? 男?」
「うん」
「へぇ……」
よりによって男か……。
まあ、沙耶子は可愛いし、男の友人がいれば何かと安心だろう。
沙耶子と仲の良い、自分以外の誰か。
それを考えると、なんだか寂しくなった。
帰り際、沙耶子は俺に言った。
「綾人君、もう、私は大丈夫だよ。心配しないで」
「え?」
彼女の言葉に、一体どんな意味が込められていたのか、よく分からなかった。
しかし、次の瞬間の言葉で、その意味がようやく理解出来た。
「この前、お母さんが自殺したの」
沙耶子は、とても虚ろな目をしていた。
唐突な話に、俺は戸惑いを隠せない。
「今日は、これだけを伝えたかった。でも、随分と長居しちゃったね」
「なあ、沙耶子……」
数秒の沈黙が続き、沙耶子は俺に笑い掛ける。
「じゃあね、綾人君」
どうして、笑っていたのだろう。
母親の死の報告をする直前までの沙耶子は、どうしてあんなに楽しそうに、自分の学校での境遇を語っていたのだろう。
沙耶子が分からない。
しかし、母親の死が切っ掛けで、家庭内暴力は消えた筈だ。
もしかしたら、沙耶子はそれが嬉しくてたまらなかったのかもしれない。
そんな考えが、俺の背筋を凍らせた。
高校野球の練習は、中学野球と然程変わりはなかった。
キャッチボールで肩を慣らし、本格的な練習に入る。
基本的な練習は中学と一緒だ。
中学時代の先輩でありピッチャーでもあった鈴木先輩は、やはりここでも一軍ピッチャー候補の座を勝ち取っていた。
来年には、一軍入りは確定らしい。
中学時代と同様、俺のキャッチボールの相手はやはり蓮だ。
彼の野球に対する執着心や実力は、以前よりも更に上がっていた。
そして、性格も少しだけ固くなった様な気がする。
俺の暴力沙汰、沙耶子や美咲の一件を、未だに忘れられないでいるのだろう。
転機というのは、何の前触れもなく訪れる。
そういう物だ。
沙耶子は、俺に一冊の日記帳を手渡した。
「これは?」
「日記帳」
その日記帳は、とても可愛らしい装飾が施されていて、いかにも女の子が使う様な物だ。
所々に見られる傷や汚れを見るに、かなり昔の物というのが分かる。
「お前、日記なんて書いてたんだ。読んで良いのか?」
「まだ、駄目だよ」
「じゃあ、いつなら良いんだよ?」
沙耶子は悲しげな顔をする。
「私に……何かあった時」
沙耶子とこんな会話をしたのは、夏休みが過ぎた、ある土曜日の事だった。
その時、俺は知らなかったのだ。
後に、沙耶子が俺の前からいなくなってしまう事を……。
数日後、沙耶子は学校の屋上から飛び降りた。
幸い、命だけは助かる事が出来た。
しかし、医者の話では奇跡でも起きない限り、もう目覚める事はないのだそうだ。
涙が溢れて来る。
涙で、世界が歪んで見える。
いや、涙で歪んでいるんじゃない。
世界その物が歪んでいるのだ。
病室の中には、俺と沙耶子が二人だけ。
どうして、こんな事になった。
どうして、沙耶子はこんな事をしたんだ。
母親が死んで、沙耶子を苦しめる者は誰もいない筈なのに。
「……日記……」
そうだ、沙耶子の日記を見れば、何かが分かるかもしれない。
あの日以来、俺は日記を手放した事はなかった。
バックから日記を取り出し、最初のページを捲った。
書かれていたのは、沙耶子の過去。
中学時代、沙耶子がこの街に転校して来る前の出来事も書かれている。
両親の死。
両親の代わりに、沙耶子の保護者役を務めた祖母の失踪。
そして、この街に引っ越して来てからの出来事。
俺、蓮、美咲との楽しかった日々。
その裏にあった、義理の母親からの家庭内暴力。
学校での虐め。
高校に入学してからは、殆どが平野隼人という少年に関する事が書かれている。
よっぽど、この少年が好きだったのだろう。
もしかしたら、平野隼人はこの病室に来るのではないだろうか。
沙耶子の想い人。
沙耶子の希望。
なら、俺が気付きあげた沙耶子との日々。
それを彼に託そう。
予想通り、平野隼人はこの病室に来た。
どこか守ってやりたくなる様な、幼さの残る少年だった。
どうやら、彼はこの一件について何も知らなかった様だ。
だから、俺はこの日記帳を渡した。
「沙耶子に頼まれたんだ。君に、これを渡して欲しいと」
そんな嘘をついた。
彼を、沙耶子から離さない為に。
日記を読んだ後、彼は涙を浮かべていた。
沙耶子の為に本当に悲しんでいる。
そう思えた。