HOPE 第四部
部屋に入るなり、宮久保は呟いた。
「何が? もしかして……テーブルの上の、あれか?」
「うん。まあ、なんとなく見当は付いてたんだけどね」
彼女は呆れた様に振る舞う事もなく、持っていたスパーの袋を床に置いた。
そして、背中に垂らしてある長髪を後ろで結び、腕捲りをする。
「じゃあ、始めようか!」
「おう、料理か」
「違うよ」
「え?」
「お料理の前に、やっておく事があるでしょ?」
料理の前にやっておく事……。
家事経験のない俺には、全く見当が付かない。
「何だよ?」
「掃除。こんな部屋じゃ、どんなに美味しいご飯を食べても、気分は晴れないから。それに、なんか埃っぽいし」
料理をしに来てくれたというのに、なんだか宮久保に対して、とても申し訳ない。
「……悪いな」
彼女はにっこりと笑う。
「大丈夫。でも、烏丸君も手伝ってくれるよね?」
「ああ、勿論」
二人で床に散らばった雑誌や菓子袋のゴミを分別し、物置きの奥底に仕舞ってある掃除機を引っぱり出した。
床一面に掃除機を掛けたかと思うと、次は宮久保に雑巾掛けをさせられた。
腕や足に負担の掛かる事は、男の仕事なのだそうだ。
最後に、テーブルの上に積まれたインスタントラーメンは、どうにか段ボールに詰め込み、物置きに仕舞った。
掃除を終えた頃には、既に午後の二時を過ぎていた。
「じゃあ、お料理しようか」
ゴミ一つない部屋で、爽やかな笑顔を俺に向ける。
「……ああ、そうだな」
少々、疲れ気味に返答した。
「烏丸君はご飯ができるまで待ってて。疲れたでしょ?」
「ああ、そうだな……。たしかに、疲れたかも」
部屋の隅に置かれているソファーに、仰向けで転がった。
キッチンの方からは、袋から食材を出す音や水を流す音が聞こえて来る。
あのキッチンで、誰かが料理を作るのなんて何年振りだろう。
この家に雫がいた頃は、仕事で帰って来れないおふくろの代わりに、よく彼女が料理を作ってくれてたっけ。
でも、どんな味をしていたんだろう。
それすらも、思い出す事が出来なかった。
重い目蓋を開け、半身を起した。
どうやら、ソファーに横になっているうちに、寝てしまっていた様だ。
キッチンからは、何やら水を切る音や、どことなく香ばしい香りがしてくる。
「できたよ」
キッチンから彼女の声が聞こえた。
ソファーから重くなった体を起こし、テーブルの椅子に座った。
テーブルの上には、二人分の冷やし中華と、焼きおにぎりが二つ乗った皿が置かれている。
「これ、一人で作ったのか?」
「うん。おいしいと……良いんだけど」
よそよそしい落ち着かない素振りを見せながら、宮久保も向かいの椅子に座った。
「食べて良いか?」
「うん、どうぞ」
「いただきます」
彼女の視線が、俺に集中する。
そこまで深刻な表情をされると、何から食べたら良いのか迷ってしまう。
とりあえず箸を取り、冷やし中華に手を付けた。
麺の上には細く切り分けられた、トマト、キュウリ、ハム、焼き卵が、乗せられている。
具と麺をバランス良く箸に取り、口へ運んだ。
甘酢の味が、口の中へ広がる。
「……旨い」
「本当!?」
強張っていた彼女の顔が、明るく晴れる。
「ああ、旨いよ」
毎日、口にしている油濃いインスタントラーメンの、揚げられた麺や乾燥された野菜とは違い、どこか新鮮な味がした。
「焼きおにぎりも食べてみて!」
「おう」
焼きおにぎりを取り、上の方を一口かじってみる。
ご飯によく醤油が滲みこんでいて、とても旨い。
学校の給食以外で米を食べたのなんて、何年振りだろうか。
感動しながら、おにぎりを頬張る俺を、宮久保は嬉しそうに眺めている。
「お前は、食わないのか?」
「え? ああ、そうだね。いただきます」
そう言うと、彼女も食事を始めた。
「普段から、こんな風に家事をしてるのか?」
「うん。お母さんは、仕事で忙しいから」
母の話をする宮久保は、どこか悲しげだった。
もしかしたら、あまり他人には話したくない事があるのかもしれない。
これからは気を付けた方が良いな。
下手に詮索をして、宮久保を不快な想いにはさせたくないし。
「ご飯は栄養を考えてね。あと、雑誌はちゃんと読む物と読まない物に分けてね」
帰り際、家の前で宮久保は俺に念を押した。
「分かってる。これからは気を付けるから、大丈夫だ」
「ちゃんと続くのかなぁ……」
「大丈夫だって。俺を信じろ」
宮久保は頬を赤らめて言う。
「だって……散らばってた雑誌の中に、女の人の裸が写ってる物があったし……。普通、女の子が家に来るのなら、前以て片付けておくでしょ?」
「え? み、見たのか! あれを……」
少しは片付けておけば良かった。
妙な空気が出来上り、数秒の沈黙が続く。
「やっぱり、男の子は……ああいうのが好きなの?」
沈黙を破ったのは、そんな宮久保の言葉だった。
「し、知らねぇよ!」
とてつもなく恥ずかしくなって、顔を真赤にして俺は怒鳴った。
「まあ、男の子だからしょうがないかもしれないけど……」
「お、おう。まあな」
「次からは気を付けなよ?」
「分かってるって」
「じゃあね」
「ああ、じゃあな」
宮久保は夕日の照り付ける道を、自転車で走って行った。
♪
夏休みが終わっても、暑い日射しが止む事はなかった。
いったい、この暑さはいつまで続くのだろう。
野球部の夏の総体は県大会まで進んだ訳だし、きっと練習量が増える筈だ。
そう思うと、とても憂鬱になってくる。
「なあなあ、綾人。夏休みの間に宮久保と何があったんだよ?」
野球部の朝練を終えた後、まだ人気の少ない渡り廊下で、蓮は陽気な態度で話し掛けて来た。
「何もねぇよ」
「嘘だぁ。夏休み前までは、気まずそうにしてたくせに」
「まあ……夏休みの間に、宮久保が俺の家に来て、何回か飯を作ってくれた事はあった……けどな……」
冷やし中華を食べた日以来、宮久保はよく俺の家に来ては、飯を作ってくれる様になった。
そんな彼女との出来事が、自身の中ではどことなく楽しみとなっている。
「この幸せ者めぇ!」
蓮が俺の背中に飛び乗る。
「ちょっ、お前……重いって! それに汗臭い!」
「それはお互い様だろ!?」
確かに、俺の体も汗でいっぱいだ。
それにしても最近、俺に対する蓮のスキンシップが、日を増す毎に激しくなっている様な気がする。
気のせいなら良いのだけれど。
教室に入ると、やはり蓮と俺以外には誰もいない。
まだ登校には随分と早い時間だから、当然か。
「あ」
蓮が何か思い立った様な声を上げる。
「どうした?」
「これ」
彼が見ていたのは、後ろ黒板に貼り付けられている文化祭のポスターだ。
「もう、こんな時期が来たんだな」
文化祭が始まる次期。
それは、部活内で三年生が引退する時期でもある。
この時期が来る頃には、一軍入り確定の俺達は、より練習に励んでいるのだろう。
三年生がいなくなる。
部活内で優位な立場に立てる事を嬉しく思いつつも、そんな自分達をどことなく不安に感じていた。
そんな時期が近付いているからだろうか。