HOPE 第三部
「でも、明日からリハビリが始まるんです。リハビリが終わったら彼女の所へ行って、しっかり話をします。それで、何かが解決するか分からないけど……」
「そんな事はない。きっと、その子は分かってくれるさ」
青年は僕に笑い掛ける。
どこか不器用な笑顔だったけれど、とても気分が晴れた気がした。
青年は病室の壁に掛けられた時計を見上げる。
「もう時間だ。そろそろ行くよ」
「あの!」
部屋から出ようとする彼を、僕は引き止めた。
「何だ?」
「あの……あなたは、まだ野球を続けているんですか?」
背を向けていた彼は、ゆっくりと僕の方へ振り返る。
「キャッチボール程度ならな」
それだけ言うと、彼は病室を去って行った。
リハビリは昼過ぎから始まった。
肩を曲げたり腕を回したりする様なストレッチが、主な内容だ。
聞こえは単純で簡単そうだが、実態はとても辛い。
普段は自由に動いていた肩を動かす度に、激痛が走るのだ。
それでも、リハビリを止めてはいけない。
リハビリを終えて一日でも早く、僕は真由に会いに行くと決めたのだから。
三学期、気付けばそんな時期になっていた。
医者からは、もう学校に行っても問題はないと言われている。
だから今日、僕は学校へ行く事にした。
昼過ぎという事もあって、生徒は全員が授業を受けている。
その為、校門や昇降口には誰もいない。
約一カ月半しか、ここを訪れていなかったというのに、校門、昇降口、廊下、それら全てがとても懐かしく感じられる。
とりあえず職員室へ行き、担任と話をした。
「肩の調子はどうだ?」
「ええ、かなり回復しましたよ」
「そうか。今は五限目の授業だけど参加していくか?」
「いえ、いいです。今日は、荷物の整理と……人に会いに来ただけですから」
担任は「そうか」とだけ言い、それ以上の詮索をする事はなかった。
幸い、音楽室は解放されており、授業として使っているクラスはいないようだ。
隅に寄せられた机の上には、僕のヴァイオリンとホープの楽譜が置いてある。
あの日、ホープを弾いていたヴァイオリン。
ケースを開けて手に取ってみると、なんだかズッシリとしていて重い。
「こんな肩じゃ、まだこれは弾けないな」
ゆっくりとケースの蓋を閉めた。
壁に掛けられている時計を見ると、時間は五限の終了間近だった。
真由に会うなら、授業間の休み時間である今か。
いや、あと一限待てば放課後だ。
真由に会うのは、それからで良い。
誰も来ない事を察するに、どのクラスもこの時間は音楽室を使う事はないようだ。
あの日の夕暮れ時、平野さんとホープを弾いていた、あの時間を思い出す。
結局、ホープという楽譜が誰の手を渡り、どうしてここに置かれていたのか、分からず終いになってしまった。
「本当に……不思議な曲だったな……」
強い西日が窓から差し込む。
ボーっとしている間に、放課後になってしまっていたようだ。
チャイムに気付かないなんて、どうかしてるな。
「想太」
ドアの方から声がした。
長い間、聞く事のなかった声。
「真由……。どうして、ここに?」
「こっちの台詞だよ。肩は大丈夫なの?」
彼女に対して、あんな冷たい態度を取ってしまったというのに。
真由は本当に僕の事を心配してくれている。
それは表情をみただけで分かった。
「もう大丈夫だ。それより、今日は話があって来たんだ」
真由は僕のヴァイオリンを見つめていた。
「ねえ、これ……触って良い?」
「うん」
ケースを開けて、真由はヴァイオリンを手に取る。
「私は……ヴァイオリンを弾く事なんて出来ないけど、吹奏楽部で頑張ってる。それと同じ様に、想太もヴァイオリンを頑張ってたんだよね……」
「でも、何も成果はなかった。それに、皆に迷惑を掛けた。皆、怒ってるよな。真由……お前もそうだろ?」
「私は……凄いと思ってた」
「?」
「並じゃ出来ないよ。コンクール前に自分の居場所を飛び出して、一人でヴァイオリンを弾くなんて……」
真由は僕を真っ直ぐに見据える。
その瞳には、僕と病室で話していた時の様な弱々しい雰囲気はなかった。
「想太がしたい事をすれば良いんだよ。私は、何も言わないから」
彼女の声はとても優しくて、聞いていて泣きそうになってしまった。
「僕は……戻りたい。真由や皆の所へ……。でも、皆は……こんな僕を受け入れてくれるか……」
泣き出しそうな僕に、彼女は笑い掛ける。
「大丈夫だよ。想太は、皆とは違う形で頑張っていたんだから」
「真由……。今度はクラリネットを諦めないで続けてみるよ」
彼女から目を反らし、付け加えた。
「あと……ヴァイオリンも」
真由は嬉しそうに笑い、僕の手を取る。
「行こうよ! 吹奏楽部!」
「ああ!」
果たして、皆が僕を受け入れてくれるのかは分からない。
それでも、真由がいれば吹奏楽を諦めずに続けていける。
そう思えた。
♪
やっと、平野さんに会う決心が着いた。
それなのに、病院に平野さんの姿はなかった。
看護師の話では、とっくに退院していて、今は家にいるそうだ。
その事を聞いて、とても安心した。
しかし、退院したというのに、どうして彼女は学校に来ないのだろう。
ただ、僕が彼女を見掛けなかっただけなのか。
それとも……。
妙な胸騒ぎがしていた。
三月も終わりだというのに、病院からの帰り道はとても寒かった。
結局、平野さんには会う事が出来なかった。
もしかしたら、これからも会う事は出来なのかも。
そんな下向きな考えしか出来ないでいた。
その時だ。
どこからか、聴き覚えのある音色が聞こえて来る。
夕日が空を真赤に染めた、夕暮れ時の音楽室。
そこで彼女が奏でいたピアノの音。
聴こえて来る曲名は、すぐに分かった。
いや、分からない筈がない。
これはホープだ。
いったい誰が?
考えるまでもない。
これを弾いているのは平野さんだ。
彼女以外にありえない。
ひたすら音を辿って着いた場所は、郊外に位置する一軒家だった。
小さな門の脇には、ピアノ教室と書かれた看板が立て掛けられている。
もしかしたら、平野さんはここに通っているのかもしれない。
ほんの少しの期待を抱き、インターホンを押した。
すると、ホープの音色は突然止まった。
『はい』
スピーカーから老婆の声が聞こえて来る。
「あの……、えっと……。そちらに、平野さんという方は……」
彼女に会う事だけを考えていた為、上手く応答する事が出来なかった。
『もしかして、沙耶子さんの御友人の方ですか?』
「まあ、そうですけど……」
『では、どうぞ。ここはピアノ教室なので、勝手に上がって来て構いませんよ』
老婆に言われた通り、僕は門を開けて家に上がった。
玄関や廊下には、アジアの国で手に入りそうな、珍妙な仮面や楽器が壁に据え付けられている。
「こちらですよ!」
奥の部屋から老婆の声が聞こえた。
真っ直ぐに廊下を進み、奥の部屋へ入ると、割と広い部屋に出た。
部屋の中央には、グランドピアノが一つ置いてある。
その隣に老婆が一人。