HOPE 第三部
とても穏やかな雰囲気を纏っていて、優しそうな人だ。
「椅子に座って待っていなさい。すぐにお茶とお菓子の準備をしますからね」
そう言うと、老婆は部屋から出て行ってしまった。
窓際には椅子が三つと大きな机が一つ、向かい合う様にして置いてある。
そこに腰を下ろした。
中央に設置してあるピアノ以外にも、あらゆる楽器が壁に飾られている。
ヴァイオリンは勿論、クラリネットやトロンボーンの様な吹奏楽器もだ。
「凄いでしょう。これら全ては、私が若い頃に集めた物なんですよ」
彼女は二人分の紅茶が入ったティーカップと、数枚のビスケットの乗った皿をトレイに乗せて、部屋に戻って来た。
それを机の上に置き、僕の向かいの椅子に座る。
「沙耶子さんに用があって来たんでしょ?」
「はい」
「ごめんなさいね。沙耶子さん、今日は来ない日なのよ」
やはり、平野さんはここに通っていた様だ。
「あの……最初に聞きたい事があるんです」
「何でしょうか?」
「さっき、ホープを弾いていたのは、あなたですか?」
「ええ、そうですよ」
そう言うと、老婆はゆっくりと立ち上がり、ピアノの譜面台に置かれている楽譜を持って来て、それを机の上に置いた。
「これ……」
老婆が持って来た物は、ホープの楽譜だった。
「これはね、沙耶子さんが私に教えてくれた曲なんですよ。聞く所によると、彼女の叔母さんと二人で作った曲とか。あなたは、これをどこで?」
「音楽室で見つけました。たぶん、前の卒業生が記念か何かで置いて行った物だと思って、僕はそれをヴァイオリンで弾いていたんです。それから暫くして、平野さんが音楽室を訪ねて来たんです」
「そうですか。じゃあ、次は私が質問しますね」
老婆は紅茶を啜り、数秒の間を置いた。
「沙耶子さんに会って、何を話すつもりだったんですか?」
もしかしたら、彼女は知っているのではないだろうか。
あの日の夜にあった出来事を。
「あの、あなたは」
老婆は僕の言葉を、相も変わらぬ穏やかな口調で遮る。
「今は、私が質問しているのですよ」
僕の目を見る老婆の瞳は真っ直ぐで、視線を反らす事が出来なかった。
「……僕は……平野さんに会って……」
会って、どうしようとしていたのだろう。
「それが分からない様では、あなたが沙耶子さんに会う資格はありませんよ」
何も言い返す事が出来なかった。
しかし、俯く僕に彼女は言ってくれた。
「でも、私が沙耶子さんの代行として、あなたと話す事なら出来ますけどね」
「じゃあ、教えてください。今、平野さんは何をしているんですか?」
老婆は軽く息を吐く。
「その質問に答えましょう。ですが、誓って下さい。どんな事を聞いても、沙耶子さんが望む通りに事を済ませると」
「誓います」
「では、教えます。沙耶子さんは、私以外の人間に会う事を拒んでいます」
「どういう事ですか?」
「今まで関わって来た人との関係を清算した、という事です。だから、彼女は学校を辞めて、ここに通っているのですよ。ピアノを練習する為にね」
「え」
老婆の話からするに、平野さんは関わって来た人達との関係を清算する為に、学校を辞めたという事になる。
それなら、僕が彼女を学校で見掛けなかった事の説明も付く。
「でも、それだけの事で学校を辞めるなんて……」
「沙耶子さんなりの考えだったのでしょう。それに、彼女は凄腕です。あの調子ならプロだって夢ではありません」
全ては平野さんの決断した事。
なら、僕は何も否定しない。
「もう僕がホープを弾く事は、ないと思います。あれは平野さんの曲ですから」
窓からオレンジ色の光が差し始める。
立ち上がり、軽くお辞儀をした。
「ありがとうございました。そろそろ帰ります」
「では、紅茶くらいは飲んで行って下さい。とても美味しいので」
そういえば話に夢中で、出された紅茶やビスケットを口にしていなかった。
「すみません。せっかく、出して下さったのに……」
「良いんですよ。うちの生徒さんは、紅茶やお菓子を出しても口にしない人の方が多いですから」
飲んでみると香りが鼻を刺す様な、若者には飲みにくい様な紅茶だった。
「美味しいですか?」
苦みに耐えながらも、少しだけ苦笑して見せる。
「ええ、とっても美味しいです」
僕の反応を見て、老婆はにっこりと笑った。
「忘れないで下さいね。今日、ここに来た事を」
そう言って、老婆は帰り際に大きな紙袋を僕に渡した。
「何だろう……これ」
帰り道で、少しだけ中身を覗いてみた。
中には大量のビスケットが、ぎっしり詰められている。
一つだけ抓まんで、食べてみた。
「……」
あの紅茶と同じ様な、若者には食べにくい様な味だ。
「一人で、これを食べるのは厳しいな。捨てるのも勿体ないし……」
ポケットから携帯を取り出し、真由に電話を掛ける。
数階のコールが鳴り、真由の声が聞こえた。
『もしもし、想太?』
「なあ、真由。今から僕の家に来れるか?」
『良いけど、どうして?』
「近所の人から、美味しい菓子を貰ったんだ。一緒に食べないか?」
『分かった、お茶会だね! じゃあ、私は紅茶を持ってすぐに行くから、準備よろしく!』
それだけ言うと、彼女は電話を切ってしまった。
張り切っていたな。
なんだか、真由にこのビスケットを食べさせるのが可哀想に思えて来た。
仕方ない。
帰りにコンビニに寄って、市販の菓子でも買って行くか。
絶対に忘れはしない。
平野さんと過ごした放課後、そして今日の出来事を。
見上げた夕焼け空は、彼女と出会った日の様に真赤に燃えていた。