HOPE 第二部
無意識のうちに、その名を呟いていた。
「え?」
「いや、何でもない。続けて」
「いつも通りの休み時間、生徒会室に行ったの。でも、いつも一番乗りの筈の光圀先輩はいなかった。いつまで経っても来ないから、皆で校内を探したの」
じゃあ、あの日の翌日から来ていないのだろう。
「翌日、先生に光圀先輩の事を聞いたわ。そしたら、退学したって……」
数秒間の沈黙が続き、彼女が呟く。
「どこへ行ったんだろう。光圀先輩……」
「家には行ったのか?」
「行ったけど、光圀先輩は出て来なかった。というより、震えた様な声で「帰れ」って怒鳴られた。その日から、皆は怖がって光圀先輩の家には近付いてないわ」
「家の場所を教えてくれないか?」
「……私は光圀先輩の家には行けない。でも、住所なら教えてあげる」
彼女は近くに置いてあるバックから手帳を取り出し、一枚の紙切れを差し出した。
「光圀先輩の住所。お正月前に、聞き出すのに苦労したわ。結構、人気があったから、なかなか聞き出せるチャンスがなかったの。もう、意味はないけど」
「ありがとう。そろそろ行くよ」
立ち上がると、彼女は一言だけ僕に忠告した。
「気を付けて。たぶん、今の光圀先輩は前とは違うから」
彼女は僕に、詳しい詮索はしなかった。
もしかしたら、あまり光圀幸太に関わりたくなかったのかもしれない。
住所を頼りに着いた場所。
そこは、どこにでもある様な集合住宅の一軒家だった。
家の表面にはコケが生えていて、小さな庭には虫が湧いている。
一目見て、人が住めるような場所ではない事は確かだ。
それでも、ほんの少しの期待を捨てずに、インターホンを押した。
数秒してから、もう一度押してみる。
誰も出て来ない。
やはり、もう誰も住んでいないのか。
あの日から二年以上は経っている。
当然だ。
振り返り、家から出ようとすると、足元に置いてあった植木鉢を倒してしまった。
ガシャンと鋭い音が響き、中に入っていた土がこぼれ出る。
放っておいても誰も気にしないだろう。
そう思っていると、銀色に光る何かが土の底に落ちている事に気付いた。
軽く土を払って、その銀色の何かを取り出す。
これは鍵だ。
ここに置いてあるという事は、おそらく家の物だろう。
家の扉の鍵穴に入れてみると、ぴったりと一致した。
少しだけ嫌な予感がする。
この中には何があるのだろうか。
何もないのなら、それで良いのだけれど。
ゆっくりとドアを開くと、きつい臭いが鼻を突いた。
妙に鉄臭かった。
所々にゴミ袋や屑ゴミが溜まっていて、とても靴を脱いで入れる様な場所ではない。
靴を脱がず、土足で上がる。
廊下を進み、リビングと思わしき部屋に入ると、そこにはあまりにも不気味で気分の悪くなる様な光景が広がっていた。
壁一面に貼られた写真。
その写真の中には、沙耶子の姿があった。
普通に撮影した物ではない。
遠くから望遠を効かせて、撮った様な写真ばかりだった。
僕や綾人の写真もある。
「何だ……これは……」
一枚の写真が目に入った。
夕暮れの屋上で、怯える様にして鉄柵に縋り付く彼女の姿。
まさか、沙耶子が屋上から落ちたのって……。
それを見た瞬間、光圀へ向ける怒りが込み上げて来た。
「クソッ」
そう叫んで、壁を強く叩いた。
写真と埃が宙を舞う。
机を見ると、数冊のメモ帳や本が重なっていた。
その下に路線図が敷かれている。
本やメモ帳をどかして路線図を見てみると、ここから五分程の場所にある駅に、蛍光ペンで印がされていた。
そこから路線を伝って線が引かれている。
「この場所は……」
線が止まった場所、それは以前に僕達が訪れた場所だった。
あの夏の日、二人だけで過ごしたあの屋敷がある村の駅だ。
そこへ行くとしたら、居場所は明らかだ。
あの屋敷しかない。
村に着いた頃には、既に時間は終電だった。
しかも地方の違いか、雪が降っていてかなり寒い。
積もる雪を踏みしめながら、屋敷を目指して歩き出す。
夏に来た頃とは大分違っていて、虫の音すら聞こえない無音の世界が広がっていた。
屋敷に着いた頃には、あまりの寒さに手は悴み、耳は千切れそうなくらい痛かった。
見ると、門の鍵は壊され、強引に開けられていた。
窓ガラスが割られている。
おそらく、ここから入ったのだろう。
中は夏に来た時と、何も変わっていない。
光圀がいるとしたら、おそらくピアノがあるあの部屋だろう。
階段を上り、部屋の戸を開けた。
室内は暗くて何も見えない。
あの日の様に、月が出ているという訳ではないのだ。
部屋の隅の闇で、微かなロウソクの明かりが点く。
ロウソクの側には、ピアノに背を預けて座っている影があった。
顔はよく見えないが、おそらく光圀だろう。
「君が……光圀幸太か?」
恐る恐る聞いてみた。
すると、気色の悪い声で笑い出す。
「くっへっへっ……くっきゃっはっは」
「何が可笑しいんだ?」
怒り交じりに質問をぶつけると、その影は立ち上がり、一歩だけ前へ出た。
それと同時に顔が露わになる。
僕は驚愕した。
その顔は、まるっきり自分と同じなのだ。
しかし、何本か抜けた歯、青ざめた肌の色、血走った目、まるで自分の衰えた姿を見ている様な、そんな感じがした。
「お前は……」
彼は口元を吊り上げて、不気味に笑う。
「僕を、光圀幸太を追って、ここまで来たんだろ? 平野隼人。どうしたんだ? そんな顔をして。僕の顔か? ああ、これはねえ、かなり前になるけど、整形手術をしたんだぁ!!」
「どうして、そんな事を?」
僕の声は恐怖のあまり震えていた。
「君と沙耶子ちゃんを離す為だよ。僕は、ずっと君が気にくわなかった! どうして!? どうして沙耶子ちゃんは、君を選んだんだ!? どうして君は、あれだけの出来事を経て、そんなに沙耶子ちゃんの事を想えるんだ!? どうして!? どうして、そんなに君達は幸せそうなんだ!?」
「……」
数秒間の沈黙が続き、光圀は口を開く。
「久しぶりだね、平野さん。あの日の朝以来、君は僕には会っていなかったよね。でも、僕はずっと君を見ていたよ」
彼の言動に、今までにないくらいの恐怖を感じた。
「じゃあ、あの部屋の写真も……」
「そうさ。全部、僕のコレクション。本当に可愛いよ。沙耶子ちゃんは」
「昨日、沙耶子を襲ったのはお前か!?」
「ああ」
「まさか……あの日、沙耶子が屋上から落ちたのも、何か関係があるのか!?」
光圀はにたりと吊り上げた両方の頬を下ろし、目をぱっちりと開いて僕を見る。
「ああ、あれは……僕が落としたんだ。沙耶子ちゃんの中学時代、繫華街のゴロツキに沙耶子ちゃんをレイプさせる様に仕向けたのも僕」
「……!?」
「抵抗する沙耶子ちゃん。可愛かったなあ……。繁華街の裏にいる連中は金や薬を渡せば何でもしてくれる。それに運が良かったよ。屋上から飛び降りた日、沙耶子ちゃんには身内がいなかったから、警察の捜査も手薄だった。先生も皆、自殺って決め付けていた。その後だよ。顔を変えたのはね。本当に近頃は便利だよねぇ」