HOPE 第一部
そんな、ありもしない事を思いながら、ゆっくりと目を瞑った。
翌日の学校では、昨日の出来事の噂で持ちきりだった。
「隣のクラスの宮久保って子、昨日の放課後に屋上から飛び降りたんだって」
「えー、マジで!? どうして?」
「うーん……私が思うに、宮久保ちゃんって平野君と仲が良かったじゃん。たぶん、それに関係してるんだと思うよ」
僕に聞こえないように言ってはいるようだが、ほぼ聞こえていた。
そんな面白半分に話すクラスメイトに、段々と怒りが募っていく。
そして、屋上から落ちた沙耶子を見捨てて、逃げた自分への怒りも……。
あの後、沙耶子はどうなったのだろう。
血はそれ程出ていなかったから、もしかしたら職員か誰かが早く見つけていれば、死んではいないかもしれない。
でも、もし死んでいたら……。
そう思うと、気分が悪くなってきた。
もういっその事、今日は早退しよう。
そう思い、だるい体を起こして廊下に出た。
丁度、チャイムが鳴る寸前だった為、昇降口には誰もいない。
「平野さん」
後ろから呼び止められた。
振り返ると、そこには見覚えのある少年が立っていた。
上履きや名札の色から察するに、三年生の先輩だろう。
「何か用ですか?」
「ああ、やっぱり。君が平野君か」
「そうですけど……」
僕とは対に、少年はとても涼しげな表情をしている。
何だ? この人は。
今は誰かと話すなんて気分じゃないのに。
「宮久保さんは生きているよ」
その言葉が、今にも立ち去ろうとしていた僕を止める。
「どう言う事ですか?」
「僕は光圀幸太。知らないかい? よく全校集会では、壇上の上で挨拶をしてるんだけど」
そういえば、光圀幸太といえば、この学校の生徒会長だ。
「どうして、沙耶子の事を?」
「昨日あった事は、先生から聞いていたんだ。まだ、ニュースにもなっていない。とりあえず、宮久保さんと一番仲が良い君に伝えておこうと思ってね。行ってあげな。宮久保さんの為にも。きっと喜んでくれるよ」
彼が言っていた病院は、バスを何本か乗り継ぎした所にあった。
駐車場も大きく、病棟もいくつかある大きな病院だった。
病院内は平日という事もあり、とても閑散としていた。
受付を済ませ、彼女の病室へ向かう。
受付の看護師が言うには、先程、僕と同い年位の少年が来ていて、今もいるそうだ。
その少年というのがいったい誰なのか、そんな事は気にならなかった。
ただ、沙耶子が無事で良かった。
それだけだ。
僕の心臓はバクバクと、大きな鼓動を鳴らす。
鼓動だけで分かる様に、とても緊張している。
いや、逆に怖いくらいだ。
それでも、僕は沙耶子に会って、どうしてあんな事をしたのか聞かなければならない。
それが、今しなければならない事だと思ったから。
部屋の番号と名前を確認し、ゆっくりとドアを開ける。
そこには、ベットに横たわる彼女の姿があった。
隣の椅子には、見知らぬ少年が座っている。
確かに、受付で看護師が言っていた様に、僕とそれほど年は変わらないだろう。
現に、彼は隣町の私立高校の制服を着ている。
どこか、大人びた顔立ちからは、悲しげな表情を隠し切れていないのが覗える。
やはり、彼も僕と同じで、沙耶子がこうなってしまった事に苦悩しているのだろう。
彼は数秒間、僕を見て決心した様に言った。
「君が来るのを待っていたよ」
「?」
「俺の名前は烏丸綾人」
「僕は」
彼は僕の言葉を遮る。
「知っているよ」
「?」
「平野隼人だろ。全て、沙耶子から聞いている」
烏丸と名乗る少年が言う沙耶子という名前に、胸が軋む。
「沙耶子とは、どんな関係なんですか?」
彼は少しだけ言葉に間を置いた。
「中学時代の、ただのクラスメイトさ」
彼はバッグから、何かを取り出した。
「とりあえず、これを見てくれ」
差し出されたのは、一冊の日記帳だった。
可愛らしい、いかにも女の子が使う様な留め具の付いた物だ。
唾を飲み込み、最初のページをめくった。
♪
中学一年生に進級したある日、父さんは多額の借金を残して自殺した。
別荘で、父方の叔母と暮らしていた私は、屋敷を離れ、父の実の妻と二人で住む事になったのた。
この人が私の母。
そう思う事にした。
母は、無愛想を絵に描いた様な人間で、私をここまで育ててくれた叔母とは違って、一欠片の愛情も感じなかった。
当然だ。
父が死んで、その不倫相手の子供を押し付けられたのだから。
こうなっても仕方がない。
それでも、母に好きになって貰いたくて、愛して貰いたくて、努力した。
仕事へ行く母に代わって、掃除や洗濯の様な、自分で出来る最低限の事はしていた。
でも、この街に来て、良い事もあった。
烏丸綾人君との出会いだ。
クラスメイトが私の家庭事情に関して、ヒソヒソと悪口を言っているにも関わらず、綾人君は気にする事なく話し掛けてくれた。
学校では殆ど、綾人君と一緒に過ごした。
綾人君がいるから、毎日頑張って学校へ行く事が出来る。
そう思えた。
綾人君こそが、私にとっての希望であり光であったのだ。
家に帰ると、母がグッタリと布団の上に倒れていた。
頬には大きな傷がある。
「どうしたの!? それ!」
驚く私の質問に、母は面倒臭そうに唸る。
「何でもないわよ」
「何でもなくないよ! 仕事で何かあったの?」
母は軽く舌打ちを鳴らし、私の頬を叩いた。
私の体は床に倒れる。
「痛っ、何するの!?」
「いちいち、うるせえんだよ!」
そう言って、私の髪を引っ張り、風呂場に連れて行った。
「痛い、やめて! いやっ」
私の声は、しだいに震え始める。
「……か、母さん……何? 何をするの?」
母は私の顔を、そのまま水の張った浴槽の中に叩き付けた。
息が出来ない。
辛い。
苦しい。
髪を上に引っ張られ、浴槽から引き上げられる。
「やめて……母さん。お願い……やめて」
か細い声で、そう言い続けた。
その言葉を聞いた母は眉にシワを寄せる。
「私を……私を母さんなんて呼ぶなああああああああ!!」
そう言って、再び私の顔を浴槽に突っ込んだ。
「ごめんなさい! もう、何も言いませんから! お願い! やめて!」
同じ様な事を数十分繰り返され、その度に私は叫び混じりに、そんな言葉を吐き続けた。
それからというもの、母は毎日の様に、私に暴力を振るい続けた。
悪いのは母ではない。
生き残ってしまった私なのだ。
左腕を何度もカッターナイフで切った。
それでも死ねなかった。
いつも刃を深く皮膚に入れていないからだ。
ならば、私は何の為にこんな事をしているのだろう。
そんな事をよく考えてしまっていた。
それに呼応するかの様に私の左腕には、たった数日で幾つもの傷が出来上がっていた。
とある休日の事だった。
綾人君は、私を買い物に連れ出してくれた。
たぶん私を元気付ける為だろう。
「はい、沙耶子にプレゼント」
綾人君は、私にリストバンドを買ってくれた。
きっと、私の左腕の傷に気を使ってくれたんだと思う。
「これ……」
「ほら、俺とお揃い」