HOPE 第一部
無邪気な顔で、左腕に着けたリストバンドを見せる。
つい笑ってしまった。
「今時、お揃いなんて……」
「あ、笑うなよ」
綾人君は少しだけ照れた顔をする。
「でも、ありがとう。大事にするね」
「ああ」
その笑顔を見るだけで、勇気付けられる。
綾人君となら、どんな困難も乗り越えていける。
そんな気がしていた。
それでも、現実は甘くない。
家に帰ると、母さんはどこかの知らない男の人を連れていた。
二十代後半くらいだろうか。
年齢独特のいやらしい目で、男は私を見ていた。
「沙耶子。この人、今日はうちに泊まってくから」
「……うん」
何も言えなかった。
下手に何かを言えば、また暴力を振るわれるからだ。
母さんの暴力に怯えて、何も出来ない無力な自分が、情けなくてたまらなかった。
その日の深夜。
自室でガタガタと物音がするので目を開けてみると、目の前には母さんが連れて来た男がいた。
「あ、あ……」
男は私の悲鳴が出る寸前の口を片手で塞ぎ、もう片方の手で私の両腕を掴んだ。
荒い息を吐きながら言う。
「大人しくしてろよ。そうすれば、痛くしないからさあ」
悲鳴も上げられなければ、身動きもとれない。
最悪な状況だ。
「借金があるんだろ。俺がその借金を肩代わりしてやってもいいんだぜ」
「?」
「ただし、今から俺の言う事を全部聞いてくれたらな!」
私は男に怯えながらも、その要求を承諾してしまった。
「まったく、中学生がこんな事を平気でするなんてなあ。『借金を返して普通の生活?』 ハハハ、笑わせんなよ。俺みたいな奴とこんな事をして、元に戻れる訳ないだろ。バーカ」
男は父さんが残した借金を、肩代わりしてくれた。
その代償に、私は汚されてしまった。
それでも、普通の生活を送る為には仕方のない事だ。
結果的には、普通になった筈だった。
数日後、母は睡眠薬を大量に飲み、自殺した。
冷たくなった母の隣には、遺書が置かれている。
『娘を差し出した自分が情けない。あの夜の事を深くお詫びします。本当にごめんなさい』
遺書は、私への謝罪の手紙だった。
少しだけ嬉しかった。
母さんの中には、私を気遣う心があった事を知ったから。
それでも、毎日のように続く暴力から解放された事を、私は一番の喜びとして感じてしまっていた。
その時、初めて気付いた。
私は最低だと。
生きる価値もない人間だと。
汚れた女なのだと。
もはや普通の日常など、見る影もなく消えていたのだ。
♪
日記はここまでで終わっていた。
こんな事があったなんて、全く知らなかった。
沙耶子は、僕なんかより何倍もの苦労を重ねていたのだ。
それなのに僕は……。
烏丸は俯いている僕に、平然と質問を投げ掛ける。
「しょうがないさ。沙耶子は何も言っていなかったんだろ?」
「ああ。でも」
「?」
「僕が気付いてあげるべきだった。そうすれば、こんな事にはならなかったのかもしれない」
「……そうかもな。沙耶子が俺にこの日記帳を渡したのは、先週の事だったんだ。こんな事を頼めるのは、俺しかいない。そんな事を言っていた。沙耶子に言われた通り、俺は君にこれを渡した。沙耶子なりに、何かを考えていたんだと思うぞ」
彼の口からポンポンと出る言葉に、僕は不信感を抱いた。
「どうして、そんなに落ち着いていられるんだ? あんたも、ここにいるって事は、沙耶子と親しい仲だったんだろ?」
僕の言葉に、少しだけ表情が暗くなる。
「そうだとしても……だからこそ、俺は沙耶子の最後の願いを聞いてやったんだ」
烏丸はこんな態度を取っているが、心の底から悲しんでいる。
それは表情を見ただけで明白だった。
沙耶子が目を覚ましたら、思いっ切り抱き締めてあげよう。
そして、思いっ切り叱ろう。
そう思っている僕を余所に、言おうかどうか迷っていたのだろう。
少しだけ彼の声が低くなる。
「落ち着いて……聞いて欲しいんだ」
「?」
「沙耶子は、もう目を覚まさない」
その言葉に、不安が募る。
「え? それって……」
「俺も詳しい事は分からないが、医者の話では、奇跡でも起きない限り、目を覚ます事はないそうだ」
衝撃の事実に、僕は愕然と肩を落とした。
しだいに溢れて来る涙を、僕は手でこすりながら一生懸命に堪えた。
「そんな……」
息が詰まり、うまく言葉が出せない。
烏丸は僕に左腕を見せた。
左腕にはリストバンドが着いている。
これは沙耶子と同じ物だ。
「あの日から、肌身離さず持っていた。それも今日で終わりだ」
腕からリストバンドを外して、僕に差し出す。
「今の沙耶子には、君が必要だ。本当に沙耶子の事を思う気持ちがあるのなら、受け取ってくれ」
「……ありがとう」
僕は迷う事なく、リストバンドを受け取った。
「俺はしばらく、ここに通う事にするよ。また、そのうち会おう」
そう言い残して、烏丸は病室から去って行った。
僕と沙耶子しかいない病室は、静寂に包まれていた。
ヒューと吹いてくる風が、僕の頬を撫でる。
涼しいと思ったら、窓が全開に開かれていた。
床には数枚の枯葉が落ちている。
風に吹かれて、どこからか飛ばされて来たのだろう。
もし、沙耶子が落ちて来たあの場所に、枯葉が溜まっていなかったら、沙耶子は死んでいただろう。
枯葉は彼女の命を救ったのだ。
それでも、沙耶子は目覚めない。
これが結果だ。
全開に開かれている窓を閉め、ベットの横に置いてある椅子に座る。
布団から覗いている彼女の左手首には、幾つもの傷がある。
僕はその手を握った。
「沙耶子、君は最低でもなければ、汚れた女でもない。君は君だ。だから、僕は君が目を覚ますのを待ち続ける。十年でも二十年でも、それ以上でも待ち続ける。君が目を覚ますまで……」
彼女の寝顔は、とても穏やかで幸せそうだった。