HOPE 第一部
そこは、彼女の言う通り、まさしく田舎だった。
自分の住んでいる街とは違って、太陽は照り付けてはいるが、とても涼しくて過ごしやすそうな所だ。
辺りは見渡す限りの田園が広がっていて、その間に一本の舗装された道がある。
「本当に田舎だな」
驚いている僕を見て、宮久保はクスクスと笑う。
「こんな田舎は初めて?」
「うん、そうかも」
コンクリートで舗装された一本道を二人で歩く。
真夏の日差しは、僕達を明るく照らし出していた。
時折、地元のケートラが通るくらいで、他には何もいなかった。
ただ聞こえてくるのは、蝉の鳴き声や風の音だけ。
しばらく歩いた所に村があった。
藁で作られた屋根のある家々が連なり、一つの村を作りだしていた。
いや、こういうのは村と言うよりは、集落と言うのかもしれない。
「なあ、ここに何かあるのか?」
「まだ先だよ」
そう言って、宮久保は再び歩き出す。
村を抜けた所に西洋風の大きな屋敷があった。
見てすぐに、白というイメージを定着させる様な、真っ白な柵に囲まれた屋敷。
大きな庭には、かつては芝生があったのだろう。
今は雑草がボウボウに茂っている。
「ここだよ」
宮久保は、そう言った。
「え?」
「ここが目的地」
ここは、どう見ても空家だった。
以前に、どこかの金持ちでも住んでいたのだろうか。
「ここって……」
彼女の表情に影が差し込む。
「昔、私が住んでた家」
「こんな凄い所に……。どうして?」
「とりあえず、中に入ろう」
ポケットから鍵を取り出し、門の鍵を開けた。
「昔、合鍵を貰った事があって、そのまま持ってたの」
屋敷に入ると、高い天井や所々の大きな扉が目に着いた。
驚いている僕を余所に、宮久保は語りだす。
「私は、父さんの不倫相手との間にできた子供だったの」
♪
宮久保沙耶子は、世間で名を轟かせる程の富豪の家に生まれた。
しかし、それは宮久保にとっては、とても不幸で可哀想な事だった。
宮久保は父親と、その不倫相手によってできた子供なのだ。
別荘であるこの屋敷に、宮久保は父方の親戚の叔母と住む事になる。
しかし、その生活は中学一年生に進級したある日、終わりを迎える。
不倫相手は疾走し、その後、父親は事業に失敗して自殺。
その為、会社は倒産し、叔母は私を一人残して失踪した。
残ったのは、宮久保とその母親、それと多額の借金だった。
そして、宮久保はこの屋敷を離れ、あの街で母親と住む事になったのだ。
♪
「ここが、私の部屋」
かつて、宮久保が住んでいた部屋は閑散としていて、中央にあるピアノとベットと机、他に家具の様な物は、一切置かれていなかった。
それを見て、宮久保は安心した様に胸を撫で下ろす。
「良かった。ピアノだけは残っていたんだ」
「?」
「殆どの家具は、差し押さえられちゃったんだ。でも、良かった。本当に良かった」
宮久保は全身の力が抜けた様に、その場に倒れ込む。
僕は慌てて、彼女の体を支えた。
「大丈夫か?」
「うん、ごめんね」
彼女の声が、しだいに震えだす。
「ずっと、怖かった。このピアノがなかったら、どうしようって……ずっと怖かった」
「ピアノ?」
「うん。叔母さんは、引っ込み思案な私にピアノを教えてくれたの。毎日、家事の合間を縫って……」
「優しい、叔母さんだったんだな」
そう言って、僕は頭を撫でてやる。
「?」
宮久保は少しだけ頬を赤くした。
「こうしてると、ホッとするって、教えてくれたろ?」
「うん、ありがとう」
僕は彼女の小さくて細い体を、力一杯に抱き締めた。
彼女の流した涙が僕の肩に落ち、温かな温度を伝える。
あの日の僕とは違う。
そう思う事が出来た。
「なあ、宮久保」
「やめて!」
「え?」
「名前で……呼んで……」
その声には、少しだけ恥じらいがある。
「うん。沙耶子」
「何? 隼人君」
「キス……しても良いかな?」
僕の問いに、頬を真赤に染める。
「キス? じゃあ……私、隼人君の……その……恋人になっても良いのかな?」
鼓動が少しずつ高まり、胸がキュッと締め付けられる様な想いだった。
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ、私……欲しいの……平野君が……」
「うん」
唇に触れた柔らかい感触を感じながら、ゆっくりと目を瞑った。
どれ程の時間が経ったのだろう。
「こんばんは、隼人君」
ベットの上で、重い目蓋を開けて横を見ると、沙耶子はピアノに手を添えていた。
部屋の中は既に暗くなっていて、唯一の明かりは外からの月光だった。
「お洋服、そこに置いてあるから」
「ああ、ありがとう」
モゾモゾと服を着る。
「今から帰ると、大分遅くなるな」
「隼人君」
「ん?」
「今夜は、ここに泊まろう。お弁当もあるから」
「……うん」
どうしてだろうか。
あまり沙耶子に対しての恥じらいを感じなかった。
「ねえ、ピアノ弾いても良いかな?」
「ああ、頼む。僕も聞きたいから」
鍵盤の蓋を開けて、椅子に座る。
真っ白な鍵盤が月光に照らされて、眩しく光った。
鍵盤の上で、彼女の指が踊りだす。
その度に、綺麗な音が部屋の中で響いた。
曲自体は聞いた事がなかったが、何度でも聞きたくなる様な、そんな音色だった。
「この曲は?」
「昔、私と叔母さんで作った曲なの。曲名はホープ」
ホープ、日本語訳は希望。
曲名を考えるに当たって、彼女の叔母は沙耶子の未来に希望を託したのだろう。
根拠はないが、そんな気がした。
「ホープ……希望か。良い曲だな……」
音色を奏でながら、沙耶子は言った。
「いつか……会えると良いな。本当の母さんに……」
「会えるよ。希望を捨てなければ」
その音色を聞きながら、僕は沙耶子と共に夜を過ごした。
これからの僕達に希望がある事を願って。
「じゃあね、隼人君」
「ああ、またな」
駅で沙耶子と別れた後、自分のいる世界が変わった様な気さえした。
上手くは言えないけれど、前と違って、どこか透き通っている。
そんな感じがしたのだ。
夏休みも終わり、秋が近付いていた。
涼しい風やカラカラに枯れた葉が、その事を証明している。
そして、秋になってから変わった事が一つだけあった。
「ごめんね」
沙耶子は申し訳なさそうに、僕に謝罪する。
「どう言う事だよ!? 別れようなんて……」
「ごめんね」
そう言い残して、僕の前から去って行った。
別れを告げるに至った訳すらも、一切見当が付かなかった。
それからというもの、僕は毎日校舎裏へ来た。
結局、前の自分に戻ってしまったのだ。
何も変わってなどいなかった。
でも、一つだけ感じている事がある。
ポッカリと穴が開いた様な感覚。
それは喪失感。
そして、この時、僕は見た。
屋上から落下する彼女の姿を……。
帰宅して早々、トイレに籠った。
便座に手を着き、そのまま一気に嘔吐する。
涙や鼻水で、僕の顔はもうグショグショだ。
汗で貼り付くシャツが、異常にヌルヌルしていて気持ちが悪い。
自室へ戻り、布団の上に倒れた。
今日までの出来事全てが、夢であれば良いのに。