舞うが如く 第六章 4~6
舞うが如く 第六章
(5)新徴住宅
明治二年の九月二十九日。
庄内戦争の戦後処理にともない庄内藩は、
最上川南下だけに縮小をされて、大泉藩と名前を変えました。
翌年の三年の春になってから、現在の鶴岡市大宝寺と道形の間に、
羽越本線の南北に亘って新徴組の家屋が建てられました。
一戸当りの宅地は一二〇坪です。
さらに畑地が三〇坪ほどつき、計一五〇坪の土地に
長さが六間・幅は三間半、押入付の六畳三間と板敷を加えた二十一坪の
石置き屋根で板壁つくりの平屋の屋敷が作られました。
これは当時の三十一坪ほどあった、足軽屋敷よりも小さなものです。
しかし藩財政としては、これ以上大きなものは建てられないために、
せめて門だけは士分の門にしたと言われています。
この地域は旧藩の煙硝蔵(火薬庫)があった場所で、
一番丁から六番丁までに区分をされ、その中には役所や道場なども作られ、
棟数は全部で一三六棟にもなりました。
その形は概ね矩形で、東西は約一八〇メートル、
南北は約三四〇メートルで、面積は六へクター余になりました。
明治の人々はこの家屋のことを新徴屋敷と呼び、
一三六棟の全域のことを指して、新徴町と呼んでいました。
これらの家屋は、戊辰戟争における戦死者の遺族たちにも割当てられました。
同年三年の八月下旬にはほとんどが完成をして、
九月より十月にかけて湯田川に本拠を置いていた新徴組の隊士たちも
相次いで、この新徴町へと移住してきました。
しかし山形県西部、旧羽黒町に位置する此処は、
古くからの門前町であるとともに、修験道の霊場である出羽三山が
背後にひかえるという、まさに山村といえる辺境でした。
同時に、冬ともなると自然が厳しい極寒の地でもありました。
廃藩と士族の解体から逃れるために
旧庄内藩は、独自にいち早い大規模な開墾事業をたちあげました。
手つかずの丘陵地帯・松ヶ岡一帯に、桑園場の開拓を計画しました。
3000人の旧藩士たちとともに、新徴組もこの開拓事業へ駆り出されました。
いわば、新徴屋敷はそのための前進基地であり
ここから厳しい労役へとでかけることになりました。
作品名:舞うが如く 第六章 4~6 作家名:落合順平