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舞うが如く 第六章 4~6

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 こののち京へ上洛を果たした山本八重は、
失明をした兄、覚馬の手足となって甲斐がしく働き始めます。
後に、禁制であった渡米から無事に帰還をはたしたキリスト教の先駆者
新島襄と知り合い、洗礼を受けたのちに、結婚をすることになります。



 近代的知性と教養を身に付けた八重は、新島襄をよく助けて、
京都において、教育と女性の地位の向上のために、
数々の功績を残しました。
なかでも、兄の覚馬とともに同志社大学の前身となる
新島のキリスト学舎の設立のために奔走したことは、
きわめて有名な逸話です。



 明治23年(1890年)、襄が病気のため急逝をします。
2人の間に子供はおらず、更に新島家には襄以外に男子がいなかったため
養子を迎えますが、この養子とは疎遠関係になってしまいます。



 その後、同志社を支えた襄の門人たちとも
性格的にそりが合わなくなり、同志社とも次第に疎遠になります。
この孤独な状況を支えたのが、女紅場時代に知りあった円能斎であり、
この後に、円能斎直門の茶道家として、茶道教授の資格を取得します。
茶名「新島宗竹」を授かり、
以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し、
裏千家流を広めることに貢献をします。



 日清戦争、日露戦争では篤志看護婦となり、
その功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に、
銀杯を下賜されることにもなります。
その4年後に、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去をします。
明治、大正と激動の中を走り抜けて、
86歳までの人生をまっとうしました。
葬儀は「同志社の母」葬として、4000人もの参列者があったと
、記録に残されています。
墓所は襄の隣、
京都市左京区若王子の京都市営墓地内・同志社墓地にあります。