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現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』

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 ──それでも──鍵子がそういったことに対して無関心だったり、不感症だったりしたわけでは決してないのだろう。鍵子は鍵子なりに恐怖し、怯え、重圧に押し潰されないよう必死で緊張を維持し、怪しく異なる者達と相対し続けてきたのではないのか。俺はまるで自分一人が被害者であるように思い込んでいたけれど、よくよく考えてみれば、全ての不幸は鍵子が引き起こしたものではなかった──あいつが関わる以前から存在した不幸に、勝手に俺や他の連中が巻き込まれだけだ。鍵子はそんな俺を──そして恐らく今まで一方的に別れを切り出してきた男達をすら──助け、救い出してくれていたのだ。
 ──この手を、
 ──この手を伸ばして、
 ──いつだって握り返してくれたじゃないか。
 拒まれることを恐れていたのは、俺も鍵子も一緒だ。
 誰も彼もから遠ざけられ、けれど誰も彼もを失いたくないから忌避されることすら受け入れて、そうして生きてきた者同士だ。同じように失い、同じように痛み、同じように泣いてきた者同士だったんだ──だからきっと鍵子は俺を恋人として認め、側にいることを許してくれたのだろう。
 他の男達のように逃げ出そうとはしない俺を、こんなに長持ちする人は珍しいですね──と笑いながら言ってくれたのを思い出す。
「鍵子──」
 ──最近大学を休んでいますが、風邪でもひきましたか。
 ──心配しています。
 ──元気になったらでいいので、また大学で顔を見せて下さい。
 ──これから季節の変わり目ですから、しっかり食べて栄養をとって、
 ──大事にして下さいね。
 ──またお話できる日を楽しみにしています。
 ──洋子より。
「鍵子──洋子!」
 手紙なんて、本当は書かなくてもいいはずなのに。
 別れの予感を感じていたのだろう──だったらあいつから俺を切り捨て、距離をとることだってできたはずだ。
 それでも──あいつは、手紙を書いてくれた。
 短い文面だけど、いかにも几帳面そうな細かな字で、丁寧に。
 手紙を書いてくれたんだ──俺との繋がりが途切れてしまわないように、声も届かないけれど、思いだけは確かに届けてくれたのだ。
 俺は──馬鹿だった。
 今更気付き、絶望的な後悔に歯を食い縛る。
「紘一郎──止めろ、行くなよ! 止まれ! 今更出て行ってどうするんだよ──」
「紘ちゃん、もう夜中なんだから、明日だっていいんだから──」
「紘一郎君、今から行っても間に合わないよ、今日はとりあえずここに泊まろうよ──」
 ──うるさい──黙れ。
 お願いだから──もう何も言わないでくれ。
 手遅れだって、
 間に合わなくたって、
 俺は鍵子に伝えなくてはいけないのだ──伝え、謝らなくてはいけないんだ。
 俺は馬鹿だった。どうしようもない大馬鹿だった。
 俺の不幸は、俺だけのものだ。
 他の男達の不幸は、彼らだけのものだ。
 祖母の不幸は祖母だけのもので、祖父の不幸は祖父だけのものだ。
 あらゆる不幸は独立していて、同情や憐憫はできても共有できるようなものでは決してない。俺はそれを勘違いしていた──巻き込まれたらお終いだと知っていたから余計に不幸になるのを恐れ、不幸と共にある鍵子をも恐れてしまった。
 鍵子には鍵子なりの不幸があり──あいつ自身の抱える恐怖があったはずなのに。
 俺はそれを誰よりもよく知っていたはずなのに──見ない振りをして、自分だけ被害者面をしていた──馬鹿としか言いようがないし、よくもまあ今まで見捨てずにいてくれたと感動すら覚える。
 俺の勘違いを正すでもなく、
 糾弾したりもせず、
 まして馬鹿にしたりすることもなく──
「──あいつは、俺を許してくれてたんだ」
 もし鍵子の不幸に俺が巻き込まれていたとしたって、
 その逆があるはずだなんて思いもしなかった。
 俺の不幸に鍵子を巻き込んでいたかもしれない。
 もつれ、複雑に絡み合った不幸の糸を解きほぐすには、痛みが必ず伴うものだ。俺はその痛みに耐えきれなかっただけの餓鬼だった──血肉と骨と神経と、体の全てに不幸は絡みつき、蔦のように巻き付いている。無理矢理にでも引き剥がそうと思うなら、犠牲と代償を支払う必要があるのだ。鍵子は敢えてその悪役を買って出ていただけの、優しい、恐がりの、どこにでもいるような──だけどどれだけ探したってどこにも見つからないぐらい、優しい女の子なんだ。
 ──だから、
「間に合わないわけが、ないんだ──そうでなきゃ、駄目なんだ!」
 軋む廊下を踏み抜き、一歩、また一歩と前に進む。三人分の体重を引き摺って、俺は尚も前に出続ける。玄関部の硝子戸が拒むように冷たい視線で睨め付けてくる──照明の明滅は一層激しくなり、宿の中は絶えず暗闇を焚いているような有様になり果てていた。見えるものが見えず、見えるべきでないものが見える──森の木々──絶えた月明かりの代わりに夜空から落ちてくる不浄の星明かり……揺れ蠢く木々の隙間を走り抜ける風。絶え間なく表情を変える、ポスターに描かれた俳優の顔……はっきりこちらを睨んでいるように見える──憤怒さえ浮かべている……青白い腕が六本、俺の体に絡みついている。橋場を支えていたはずの久里が、こちらの左腕にしっかりと縋りついている……皆ひどく冷たい肌で、時折感じる滑るような感触がたまらなく不快だ──ひどく寒く、激臭は目の奥に鋭い痛みをねじ込んできた。
 ──鍵子。
 泣かないように呼吸するのが難しい。
 玄関まで──駐車場まであと数歩だ。
 あと数歩が途方もない距離に思える。けれど俺は立ち止まる権利を持っていない。止まれと言っていいのは鍵子だけだ──あいつだけが俺に立ち止まる機会を与えてくれる。何もかもが真実で、今更俺達の住む街に帰ったところで何もかもが手遅れだったとしても、今この場で立ち止まって良い理由にはならないのだから──せめて俺が看取ってやらなかったら、誰が稲毛洋子という優しくて寂しい女性のことを、彼女の不幸を、受け止めてやれるというのだ。
「紘一郎、おまえおかしいぞ──何言ってるんだ、さっきから……気が動転してるんだ、そんな様で帰ったって何ができるんだよ!」
「駄目だよ紘ちゃん、明日の朝、明日の朝一緒に行ってあげるから、今日はひとまず休もう──!」
「紘一郎君、危ないよ、止めよう、ね──行っちゃ駄目だよ、お願いだから──!」
 言い募る三人の声が、今は遙か遠くから聞こえる。少しも耳を傾ける気にはなれず、俺はようやく黄変したカーテンの間近まで迫っていた。手を伸ばし、薄汚い布地を避けて冷たい硝子戸の表面に指を這わせる。しっかりと施錠された戸は頑丈な岩のようにぴくりとも動かず、目を刺激する光の点滅が視界を甚だしく阻害していた──鍵穴があるわけでもない、ただフックに半円盤を引っかけるだけのクレセント錠だったから、把手を探り当てれば簡単に開くはずだ。手探りで硝子の表面に指を滑らせる。その手を掴もうと誰かの腕が伸びてきたが、俺は混乱しながらも暴れ回ってその手を振り払った。
 ──鍵子。
 旅行に行こう。
 親の躾なんて知ったことか──門限を破ったって構わない。大学生なんだから、それぐらい許されていいはずだ。
 行ったことのない場所に行って、