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現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』

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■ 転 ■


「──落ち着けよ──落ち着けって、紘一郎! 気持ちはわかるけど、今から行ったって間に合わないんだから──!」
 峰岸先輩が俺の腕を掴み怒鳴る。他に客がいれば間違いなく苦情が来ただろう大喝に、しかしこの古びた宿は沈黙を守ったままだった。自分の手荷物を全て鞄の中に詰め込み、肩から提げた姿で、俺は何とか部屋から出ようと足掻いていた──先輩は怒鳴りながらも決して腕を離そうとはせず、橋場と久里は狼狽し、どうしたらいいのかわからないといった風情でこちらをじっと見詰めている。
 ──何を、
 ──何が間に合わないんだ!
「車貸して下さい、峰岸先輩。俺一人で行きますから──帰りはタクシー呼んで下さい、その金はちゃんと払います」
「そういう問題じゃないだろ、馬鹿野郎──大体お前、免許持ってないじゃねえか!」
「大丈夫です。街に下りるだけです。そこから先は、電車で行きます──いや、この時間なら、それこそタクシーでも何でも使わないと……」
「──だから落ち着きなさいってば、紘ちゃん!」
 橋場が金切り声を張り上げる。
 俺が人を射殺すような目付きでもしていたのか、視線を合わせただけでびくりと体を震わせながら、しかし橋場は懸命な様子で言葉を絞り出してきた。
「無理だよ──もう間に合わないって、わかってるでしょ! さっきニュースで言ってたじゃん、稲毛さんが亡くなったって──」
「いや──まだわからない。わからないんだよ! あんな、音がぶつ切りのニュースだけで、鍵子が──洋子が死んだなんて、まだわからないだろ!」
 ──俺が、行かなきゃいけないんだ。
 俺が言って確かめるまで──誰も、鍵子が死んだなんて、勝手に決めつけるようなことは許さない。病院に行って、どんな状態であっても顔を見て、息をしているかどうか確かめて、心臓の音を聞いて──何もかも全て確かめ尽くした後でなければ、あいつが死んだなんて簡単に納得できるわけがない。殺したって死なないようなあいつが、何かの拍子に生き返って飄々とした顔をしていそうなあいつが、ただ漠然と交通事故に巻き込まれて死ぬなんて──そんなことはあり得ない。あってはいけないことだ。もし鍵子が死ぬとしたら、最後の最後まであいつらしく、わけのわからないまま、不条理に死んでいくべきなんだ。
 そうでなければ──そうじゃなかったら、
 周りと一緒に不幸になって、
 周りを全て不幸に巻き込んで、
 周りから逃げるように距離をとり続けて、
 そんなふうに生きてきた鍵子が──報われなさ過ぎる。
 せめて最後の最後ぐらい──鍵子は、一人で死んでいくべきなんだ。
 他の何にも邪魔されず、
 静かに──穏やかに、蝋燭の火が消えるように唐突に。
 そのために生きてきたんじゃないのか。
 鍵子は──稲毛洋子は、優しいから、優し過ぎるぐらいに優しいから、
 自分の知る誰もが不幸になるのが嫌で、
 自分一人だけで死ぬために生きてきたんだから──。
「とにかく、俺行きますから。車は貸してくれないならいいです、歩いて山下ります。街に出たらどうにでもできますから……先輩、ここ泊まる分の金は置いていきます──」
「金なんてどうでもいいんだよ! 歩いて行くって言っても、もう夜中だぞ! こんな田舎で電車なんて走ってるかどうかも怪しいし、タクシーだって捕まらないに決まってるって! 明日の朝になってからでも間に合うだろ──もし、その、誤報だったとしてもさ、病院だって夜中にいきなり押しかけて、会わせてくれるわけないって!」
「いいんですよ会えなくたって! 鍵子がいれば──そこにいるってわかれば、俺は納得できるんですから!」
 離せ離してくれと叫んで、俺は峰岸先輩の体を引き摺ったまま無理矢理部屋を出て行った。自分でもこんな力がどこにあったのかと驚く程、俺は尋常ではない力で板張りの床を踏み締め、一歩ずつ宿の出入り口目指して歩を進める。自分一人では到底止められないと悟ったのか、先輩は部屋の隅で固まっていた橋場達を呼び寄せた──早く来い、と叫ぶ声にびくんと一瞬震えた後、二人が弾かれたように走ってくるのが見える。橋場が俺の右腕に縋りつき、その腰を更に支える形で久里がしがみつき、必死の形相で両足を突っ張らせていた。それでも俺は止まらない──止まれないのだから、歩みを続ける他に術などないのだ。鍵子ともう一度会って顔を見るまでは、諦めるには早過ぎるのだから。
 黒々とした穴に飛び込むような心地で壁を伝い、照明の切れかかった廊下を歩いて行く。背後から組み付き、必死に止めようとする三人の人間を引き摺っているせいで酷く遅々とした歩みではあったけれど、それでも立ち止まるよりは遙かにましだった。頭上で裸電球が断続的な明滅を繰り返し、宿の内装を照らし、ときには閉ざしたりした──妙に時代がかった古めかしい映画のポスターに描かれた俳優の目が、明滅のたびに少しずつ瞬きを繰り返しているようにも見えて、たまらなく不気味だった──自分の興奮度合いが著しいことは自覚できたが、だからといって冷静さを取り戻す材料はこの宿のどこにも見当たらない。
 通路の奥、宿と外界とを隔てる薄汚れたカーテンは屋内であるにも関わらず時折はためき、揺らめいては硝子戸の向こうに潜む暗闇を覗かせている──木々は相変わらず激しくしなり、蠢いていた。今やその蠢動はおぞましさすら漂うものとなっていて、森には明確な悪意があり、その害意に基づいて夜空と街の光を隠蔽しているに違いないと確信できる程だ。駐車場には俺達四人を乗せてきた車が停められているはずだが、不規則にはためく布地の隙間から見えるのは狂おしく密生した木々ばかりで、明かりが漏れているはずの玄関部すら視界が遮られるような有様だった──ほんの一瞬、車の外装を捉えた気もしたのだけど、あまりにも記憶にある姿とは懸け離れたものだったため、俺は意識的に錯覚だと思い込むことにした。
 硝子戸の向こうから夜が染み込み、侵食を始める。
 宿は明滅のたびに姿を変えて、今や不定形の洞窟じみた様相に見えていた。これだけ大騒ぎしているというのに他の宿泊客が怒鳴り込んでくることもなければ、従業員が飛び出してくる気配もない。話し声や息遣いといったものは俺達以外発する者は皆無で、沈黙は耳の奥を刺すような痛みを伴い全身にのしかかってくる。すぐ近くで怒鳴っているはずの先輩の声すら、わんわんと鼓膜の奥で反響したように聞き取りにくい。
 廊下中に湿っぽくまとわりつくような冷気が漂い、腐敗した肉のような悪臭が鼻を刺激し始めていた──俺は自分自身が錯乱に近い状態であることは承知していたから、これも一種の錯覚だと思うことにした。そうでなければ、先輩達がこんな饐えた臭いに平気な顔をしていられるはずがなかったからだ。一歩足を進めるごとに体温が下がる程冷気は密度を濃くし、悪臭は頭痛さえ引き起こし始める程のものになった。
 目の奥でちかちかと火花が散る。
 ──鍵子。
 不幸に襲われたとき、鍵子はどういう方法でか知らないがそれらをことごとくはね除け、退けてきた。
 ──でも、