現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』
見たこともないものを見に行こう。
燃え上がる太陽を、
気の抜けた炭酸飲料のような青空を。
人々のひしめく都市、広大に裾野を伸ばす山々、鳥達が飛び交う小高い丘、無数の動物が駈けていく荒野、青ざめた月光に照らし出される砂漠。
暗い廊下。
石造りの古城、古色蒼然とした街並み、近代的な建築物の群、坂道の途中無理な格好で停まっている車、高速道路を埋め尽くすテールライト、淡く寄せては砕け散る波。
子供達の笑い声が響く学校、虚しく遊具の放置された夕暮れ時の校庭、紙魚の臭いが鼻を突く図書館、陰鬱とした病院、歓声に埋め尽くされたスタジアム。
薄暗い中数人で音を合わせるライブハウス、さわさわと竹林を吹き抜けていく涼やかな午後の風、木造の旅館、人を刺した直後のナイフ、海と見まごうほど巨大な湖。釣り糸の垂れる水面、ゲームに興じる青年、延々と垂れ流しにされるテレビ、誰もいないプール、黄昏に抱かれた公園、雑踏に支配された駅。
大道芸人とそこに群がる見物人、教師という職業に行き詰まった青年、何人もの人々を感動させた絵画、科学者達が必死になって作り上げる兵器、荒れ果てた街並みにとどめを刺す銃声、野原を駆ける少女、夜空を見上げている猫の眼差し。
書類の束を抱えて走る男達、コンビニの片隅で出番を待っているコピー機、人気のない自販機、黒板に書き残された日直の名前、夜明けを照らす紫がかった朝焼け、談笑に満ちたファーストフード店、衝突してひしゃげた車、突然の事故で家族を失った者達の泣き声、正月のどことなく浮かれた雰囲気、理想と信仰のために銃を手にする男、学校をさぼって見たくもなかった外国の映画を見ている男子生徒。
任されたプロジェクトのために東奔西走する会社員、潰れたネジ山、選考に落ちたマラソン選手、網棚の上に放置された雑誌、背の高い草が生い茂る草原、異様な角度で伸びやる枯木、壊れたスピーカー。
宗教の勧誘、車を運転する若者、到底足がかりなどないような絶壁、張りつめた薄氷、脳を浸食する麻薬、投棄された化学薬品、風邪で寝込む少女、心霊写真、染み入るせせらぎ。
口紅の色が気に入らない女性、紫煙を立ち上らせる煙草、南国特有の植物、飢えていく赤ん坊、赤熱した製鉄所、刻々と広がる山火事、裏ビデオの広告、どれだけ待っても鳴らない電話、混雑する開店セール。
濁りきった川の水、冷たい夜気、宇宙にまでその手を伸ばす人類、不足するワクチン、巨大な望遠鏡、クーラーから吹き出す心地よい冷気、つまらない演劇、取り締まりを逃れる人身売買、ちかちかと明滅を繰り返す電球、誰もとろうとしない受話器、街の外れでひっそりと佇む老人、降りしきる雨。
高速で疾走するジェットコースター、真夏の気怠さ、崖から飛び降りる瞬間の恐怖、放課後に相談する悩み事、将来への漠然とした不安、森の中で落ちている沈黙、恋人と一緒に過ごす時間、何度中身を確認しても頼りない財布、途中の抜け落ちた古本、志望校にはまだ少し足りない偏差値、白濁した温泉、流れるプール、山間のさびれた料理屋。
笑い、泣き、怒り、苦しみ、幸せと不幸せ、喜びと不条理、人生と運命、罪と罰。
沈み込む海、世界に編み目を広げた都市、雨上がりのコンクリート、酒樽、雪解けの景色、涙と笑顔、花と汚物と金銭と和菓子、洋菓子、本当にくだらないジョーク、ひなびた温泉、カクテル、地下のトンネル、氾濫する川、孤独と依存、暴力と共生、価値あるものと価値のないもの、高貴なものと下劣なもの、正義と悪。
吠える犬。
通学路、信じられないほど綺麗な星空。痛みを堪えて笑うその気高さ、夢と希望と明日と未来と昨日と過去と現実と現在。
牛乳、水飲み場、空想、妄想、念願と祈り、切り捨てられたブックカバー、戦争、初恋、別離、交わり、別れ道、行き止まり、朝露と夜露。
バス、ピザ、絵本、消臭剤、小説、平和、泣き顔、腕時計、マグカップ。
頭痛薬、お化け屋敷、神社。
平坦に続いていく運命と、波瀾万丈な定め。
爛熟、ペットショップ、徒競走、輪ゴム、台風、絶望、悪夢、犯罪、悲嘆。
溜息、水着、宝石、薔薇、背広、教会、歴史。
面白いもの、
楽しいもの、
素晴らしいもの、
退屈なもの、
つまらないもの、
悲しいもの、
寂しいもの、
優しいもの、
幸せなもの、
不幸せなもの──。
全部を、見に行こう。
「全部、見に行こう──鍵子」
「ええ──全部見に行きましょう、紘一郎さん」
硝子戸の向こうに──影が、踊った。
ばぢん、と爆ぜるような音を立てて全館の照明が落ち、目の前が突然暗闇に覆われる。硝子戸は変わらず閉ざされたまま、指先でなぞる表面は硬く、内と外とを隔てている──侵入者を防ぐためというよりも、中に入った人間を決して逃がさないようにするような硬さだった。
塗炭の暗闇は両目を閉ざし、何もかもを黒一色に塗り潰し、埋没させてしまう。
それでも──ほんの数センチ離れた場所に、鍵子がいる。
俺は迷子の子供がようやく母親に巡り会えたときのように泣いて、涙を溢れさせ、縋りつくように硝子戸に張り付いた。
──鍵子、
──やっぱりお前、無事だったんじゃないか。
──心配かけやがって、
──人騒がせな──。
「人騒がせなのは紘一郎さんでしょう。こんなところで、そんなに泣いて。みっともないったらないですね」
ふにゃふにゃとした口調で、いつものような口の悪さで。
この宿にいる間、致命的に何もかもが間違っていると感じていた中で、こいつだけは決して変わらない──変わることなどないのだと信じさせてくれる。
──鍵子。
俺の──大切な、恋人だった。
「言った通りでしょう先輩、鍵子が事故で死んだなんて、そんなこと──」
「何言ってるんだよ、馬鹿かお前! ニュースで言ってただろうが! 死んだんだよ──あいつはもう死んでるんだよ!」
「そうだよ紘ちゃん! だって、私達誰も、あの子にこの旅館のこと教えてないんだよ──それなのに何でここにいるの! いちゃいけないんだよ、あの子は! だから騙されたら駄目だよ……紘ちゃんを連れていくつもりなんだよ、行っちゃ駄目だよ!」
「紘一郎君、行っちゃ駄目だよ! 紘一郎君も殺されちゃうよ──絶対行っちゃ駄目だよ!」
──行っちゃ駄目。
──行っちゃ駄目だよ。
──紘一郎、
──紘ちゃん、
──紘一郎君──。
──行っちゃ、駄目だ。
「うるさい……死んでるもんか──鍵子は、俺を置いていったりしない!」
──きっとあいつは──死ぬときは、俺を一緒に連れて行ってくれるような、そんな奴だ。
俺は──羽交い締めにされて、両腕を掴まれて、それでも何とか腕を伸ばして戸を開けようと足掻いた。怖気を振るうような冷気、耐え難い悪臭は、今や立ちこめるというよりはおびただしく迸っていた。絡みつく六本の腕に体温はまるで感じられない──氷のように冷たく、信じられない程強い力で俺を廊下の奥へと引き摺り戻そうとする。暴れ、泣き叫んで怒声を張り上げ、俺は何とかその場で踏み止まることに必死だった。それが滑稽だったのかしらないが、硝子戸の向こうからくすくすと忍び笑いが聞こえてくる。
──こいつは──。
作品名:現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』 作家名:名寄椋司