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現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』

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 鍵子自身は両親とも折り合いが悪いようで、家庭での話など滅多に聞いたことがない。恐らく家族旅行に行ったこともないだろう。流石に家族のつもりで旅行に出掛けるというのは気が早い気もするけど、恋人同士として出掛けるならば十分楽しめる気がした。
 湯の中で足を伸ばし、大きく息を吐く。
 伸びをするたびに疲れが湯の中に溶けていくようで、ひどく心地良い。
 ──鍵子は──。
 あいつは俺のことを、どう捉えているのだろう。
 今まで深く考えたことはなかった──意志的に考えることを避けていた気もする。
 嫌われたり、憎まれたりはしていないのだろう。あいつの口の悪さは謂わば動物同士のじゃれ合いで爪を立てるようなもので、本当に嫌いなものに対しては徹底した無視を決め込む性格だった。鍵子はよく俺のことを好きだとか愛しているとか言うけれど、大抵そんなときはいつもの気の抜けた、ふにゃふにゃした笑顔を浮かべていたので、どうにも真実味が薄れていたように思う──照れ隠しをするような性格でもないので、きっとどんな真剣なときにだって鍵子は鍵子のまま、ふにゃふにゃした笑みのままで、思い浮かんだ言葉をそのまま直接口に出しているのだろう。
 水面の揺れに、一端収まっていたはずの眠気が再びぶり返してくるのを感じる。
 とりとめのない考え事をしているせいか、時間の感覚が酷くあやふやになっていた。少しばかり長湯が過ぎて、のぼせてしまったのかもしれない。浴槽の縁に置いたタオルを手に取り、一端洗い場に戻ると、冷水で軽く頭を冷やした。眠気は瞬間的に消え去ったが、霞がかった意識はそのまま回復の兆しを見せず、寧ろ大量の湯気によって一層心の内にもやがかかったようにさえ感じられた。
 ──もう上がるか──。
 疲弊はそう簡単に消え去るようなものではない。今は多少気持ちが浮つき、楽になったような気がしているが、これも時間が経てば興奮が収まると同時に疲労感も戻ってくるはずだった。湯疲れする前にさっさと部屋に戻り、横になった方がいいのだろう。連れてきてくれた三人には申し訳ないのだが、皆で酒を飲んだり明け方まで馬鹿話をするような余力は今の俺に残されていなかった。
 ──付き合い悪いって、また言われそうだな。
 責められても仕方のない話だ。事実俺は人付き合いが苦手で、できるなら一人でいたいと願い続けてこの歳まで生きてきたような人間なのだから──こうして友人達と連れ立って旅行に行ったり、鍵子と交際をしていること自体、本来ならばあり得ないようなことだった。
 ──あの、遺体を見てから。
 長い遺体を見てから──村の禁忌に触れてしまってから。
 周囲から忌避され、俺自身も人を避けるようになった。
「──いや……違う、か」
 忌避されたのは、禁忌を犯してから。
 だけど──俺はもうそれよりずっと以前から、人と関わることを恐れていたのだ。
 親しい人がある日突然失われてしまうことを──恐れ、遠ざけるようになった。
 熱湯に近い温度のシャワーで意識を無理矢理覚醒させ、遠い昔に忘れ去った──忘れ去ろうとした記憶を掘り返す。
 子供の頃、祖父母の暮らす家とはまた遠く離れた地方都市で暮らしていた俺は、極端に病弱で虚弱体質だったせいもあり、外に出て遊ぶことの許されない生活を送っていた。幼稚園にすらまともに通うこともできず、小高い丘の上にぽつんと建てられた自宅の二階、最も西側の部屋が俺の自室兼病室だったのだけど、そこの窓から延々飽きもせずに遠い街並みを眺め続けていた。緩やかな角度を描き街に繋がる道路、丘を包むように生えた雑木林、その木々に隠れるように建てられた教会の鐘楼。通園用のバスが玄関の前を全くスピードを緩めず走り去っていくたび、ひどく惨めな気持ちにさせられたものだった。ろくにベッドから起き上がれもしない、陰気で無愛想な子供の世話を見ることに疲れていたのだろう──両親はその日俺を置いて車に乗って出掛け、二度と帰ってこなかった。
 ──悲しかったな。
 悲しかった。
 寂しかった。
 祖父母に引き取られ育てられることが決まってからも、俺は度々あの家に帰りたいと駄々をこねたものだ。決して良い思い出がある場所ではなかったし、長い年月を過ごしたわけでもないのだけど、あの家にいれば両親がいつかきっと帰ってくるはずだと信じていた。いかにも子供らしい、浅はかな思い込みだったけれど、当時の俺にはそれぐらいしか縋るものはなかったのだ。
 祖父母も、
 隣近所の人達も、
 学校の級友達も、
 何もかも全て──失われるときは突然で、二度と取り返しなど効かないのだと──子供心に受け入れるのが嫌で、事実として受け止めるにも重すぎて、
 ──だから、
 だから──俺は、周囲との関わりを極力避けるようになったのだ。
 もう二度と、悲しい思いをしなくて済むように。
 もう二度と、寂しさに泣かなくて済むように。
 子供の頃からずっと──俺は望んで孤立し、当然のように爪弾きにされ、忌避されて、その環境すら心地よいと思い込みながら生きてきた。
 ──鍵子は、
 あいつは──どうなのだろう。
 大学生にもなれば適当な距離感の取り方も見えてきて、少ないながら友人もできて、
 けれど──恋人という踏み込んだ関係になったのは、あいつだけだ。
 顔が綺麗だから。
 いかにもお嬢様然としているから。
 だから好きになったのかと聞かれれば、それもある、としか答えようがない。
 周囲から避けられ、明らかに浮いていた姿に、かつての自分を投影したのかもしれない。
 少なくとも、無意識にそんな考えがあったことは否めないのだ。
 傷を舐め合うつもりはないけれど──傷を重ねる結果になった。
「……会いたいな」
 鍵子に会って、話がしたい。
 あいつと一緒にいると不幸になる。
 けれど──あいつはいつだって、不幸から逃げようとはしなかった。
 周りにいる誰も彼もを巻き込んで、けれど自分自身が不幸になることさえ厭わなかった。
 だったら──俺がこのまま逃げ出してしまったら、あいつはまた自分一人で不幸になるだけだ。
 ──それは、
 そんなのは──駄目だ。
 熱湯を熱湯と感じなくなった頃に栓を捻って湯を止め、軽くタオルで髪の水気を切って脱衣所に戻る。替えの下着を身に着け、いつものシャツとスラックスを着込むと、疲れも眠気も振り切るように足早に遊戯室へと向かった。行きがけに見たのだが、遊戯室の一番奥に電話が設置されていたはずだ──電源の落ちた遊戯機器を横目に見ながら、大股で歩みを進める。幸い小銭入れだけは持ってきていたので、十円硬貨を取り出すと受話器を手に取り、鍵子の家の電話番号を頭の中で諳んじながらダイヤルを回す。
 しかし期待に反して、受話器の向こうから鍵子の声が聞こえてくることはなかった。
 どころか、そもそも電話が通じていない──ぶつぶつと途切れ途切れの音声で、
 ──この電話──ごうは、ただいま使わ──りません、
 ──この電話番──は、ただい──われておりません、
 ──この電話──うは、ただ──使われて──ません、
 俺は──、
 不意に形容しがたい恐怖に襲われて、受話器を放り出した。