現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』
ぎしぎしと軋む廊下を抜けて、丁字に突き当たったところで右に曲がる。左側の通路は大浴場と遊戯室に続いているようで、右側の通路に沿って客室が五つ配置された造りになっているようだった。最も手前、通路側の部屋の手前で立ち止まり、ここの部屋だ──と示す峰岸先輩の声を聞く。宿に漂う何とも言い難い悪臭はいっそ胸をむかつかせる程になっていて、とにかく俺は部屋で休みたいとしか考えられなくなっていた。
先輩、橋場、久里に続いて一番最後に部屋へと足を踏み入れ、肩に食い込む荷物を下ろす。
部屋は典型的な和室で、襖(ふすま)で区切られた二間続きになっていた。入り口側には朱塗りの座卓が設えられ、同じ赤の布を張られた四人分の座椅子が並んでいた。奥の間が寝室になっているのだろう、寝具もしっかりと四人分用意されている。予約もなしに突然訪れた割には、不思議と準備が整っていた。
それぞれ部屋は八畳間で、硝子戸の内側には障子がはめ込まれている。一見変わったところがないような造りなのだが、寝室側の壁が外から内側に向かってはっきりわかる程傾斜している一方で、屋根もまた寝室側へと緩やかな傾きを描いていた。二間ともそれぞれ、通路側の壁に一畳分の窪んだ空間があり、そこだけ畳ではなく板張りになっている。座卓がある部屋はその板の間に黒い台を置き、時代がかったテレビが設置されていた。寝室側の板の間には特に何も置かれず、うっすらと埃が積もっている──布団を四人分放置しておく余裕があるというのに、肝心な部分に手が届いていない。こんな古い宿で清潔さを期待する方が間違っているのかもしれないが、だとしたら、まるで俺達が来るのを知っていたかのような寝具類の整い方が逆に気にかかる。
──まあ、気にし始めたら何でもかんでも気になるもんだけどな、こういうのは。
結局、鍵子のことや祖父母のことで、神経質になっているだけなのだろう。親代わりだった恩人を二人も亡くして、自分でも思っている以上に参っているのだ。
──とにかく、休めばいいんだよな。
家に篭もっている間も何かしていたわけではないのだが、不思議と目が冴えて眠れず、ほとんど休むことはできなかった。じわじわと蓄積していった疲労が、今ここに来て緊張の糸が切れたからなのか、一気に噴き出したのだろう。
「──とにかく、疲れましたね」
溜息と共に言うと、峰岸先輩が笑いながらこちらの方を軽く叩いて、
「ずっと俺に運転させて、助手席で居眠りしてた奴の言うことか、それが」
言って、可笑しそうに笑った。橋場と久里も口許を押さえて笑みを噛み殺している──確かに先輩の言う通り、居眠りしていた俺が真っ先に疲れたの何だのと言うのもおかしな話だった。
「いや、最近ちょっと……寝付きが悪くて。なかなか疲れがとれなかったんですよ」
「そりゃそうでしょ。紘ちゃん最近大変だったじゃん……その、お祖母さんとお祖父さんとで、立て続け──だったわけでしょ? 結局」
こちらを気遣うように、橋場が聞いてくる。俺は素直に首肯した。
「葬式なんて慣れないことしたせいかな……喪服とか、ああいうカッチリした服着るのも久し振りだったし。田舎だから遠いしさ。とにかく色々あって──」
──疲れたよ。
繰り言のようにこぼし、俺は緩くかぶりを振った。ここで愚痴を言ったところで死んだ祖父母が生き返ってくるわけでもないのだが、少しぐらい誰かに甘えていないと、それこそ神経が緊張し過ぎておかしくなりそうだったのだ。
少し部屋で寛ぎたいという三人と別れ、俺は眠気の残る覚束ない足取りで廊下に出ると、大浴場に向かって足を進めた。木製の立て看板に二十三時までは解放されていると書かれていたし、さすがにまだそこまで夜中に迫っていたわけでもない。替えの衣類を抱えて通路を抜け、照明が欠けた仄暗い廊下を進む。古い染みのこびりついた板張りの廊下は、体重をかけるたびにぎしぎしと割れそうな程の軋み音をたて、自然忍び足のような足取りになってしまう──音が不愉快なだけでなく、廊下の両側にはめ込まれた硝子窓から見える森の木々があまりに激しく揺らめき、蠢いている様が不気味でもあった。あれほど枝葉がしなるのならば相当に強い風でも吹いているはずなのだけど、不思議とこの建物自体は全く揺れず、風の吠える音も聞こえてこない。硝子窓は凍ったように動かず、試しに開けて外風の具合を確かめようとしても、鍵が錆びついているのかびくともしなかった。
一種異様な静けさの中を進み、やけに古い機械が幾つか設置されただけの遊戯室を横目に、脱衣所に続く暖簾を潜った。大浴場とは名ばかりの、家庭風呂を多少拡張しただけの広さではあったが、それでも不思議と観光気分は味わえるものだ。脱衣所の中はまだかろうじて清潔さが保たれていることも浮ついた気持ちに拍車をかけた。服を脱ぎ、ロッカーに押し込めると、タオル一枚だけを持って浴室に向かう。
白い湯気が立ち上る浴室はやはりそれ程の広さもなく、床はタイル張りで、浴槽も一つしかなかった。天然温泉なのか、循環式の沸かし湯なのかは知らないが、どちらだったにせよ足を伸ばして湯に浸かれるだけありがたいというものだ。ぬるいかけ湯を浴び、横並びに五つしかない洗い場で簡単に体を流すと、足早に浴槽へと向かう──湯温は驚く程熱く足先が痺れるような思いをしたが、肩まで沈むと不思議と適温であるように思えた。
──冷えてたのかな。
自分が思う以上に、一連の出来事は体に負担をかけていたのかもしれない。
黒々とした森を大きな硝子一枚越しに見遣りながら、凝り固まった筋肉を湯の中でゆっくりとほぐしていく。浴室内は湯気のせいか視界が良くなく、おかげで宿全体に漂う言いようのない不潔さ、不快さもさして気にはならなかった。よく目を凝らせば壁に苔が生え、床はところどころ水垢がこびりついているのが見えるのだが、気にしなければどうという程のものでもない。
──旅行、か──。
鍵子を連れて来れば良かったかな──と、今更ながらに思う。
あいつの家は躾が非常に厳しく、大学生にもなって外泊すらままならないので、旅行の計画を立てたとしても実現できるかどうかは甚だ疑わしい。
それでも──連れて来れば良かったと、
一緒に来れれば良かったのにと、
今更──後悔する。
あいつから離れたくて家に閉じこもり、
あいつから逃げたくて旅行の誘いに乗ったのに。
口を開けば人を食ったようなことしか言わないし、一緒にいるだけで不幸に巻き込まれるような、そんな恋人なのだけれど──それでもあいつはまだ俺の恋人で、大事にしてやりたいという気持ちは残っている。他の男達のように逃げ出して、誰からも避けられたまま生きていくような人生を少しでも真っ当なものにしてやりたいと、そう願う心は残っている。思い上がりかもしれないし、鍵子からすれば余計なお世話なのかもしれないが、もしあいつを助けてやれる人間がいるとしたら──それはきっと、今は、俺しかいないはずなのだ。
「……温泉か──海外とかも、いいかな」
作品名:現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』 作家名:名寄椋司