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現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』

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■ 承 ■


「──紘ちゃん。紘ちゃんってば。ね、起きてよ──先輩が泊まれるところ見つけてくれたんだから、起きなって」
 ゆらゆらと──。
ぐらぐらと、体を揺さぶられて、俺は慌てて体を跳ね起こした。間近に立っていた橋場が小さく悲鳴を上げて離れるのも構わず、急くように首を巡らせ周囲を見渡す。起き抜けのせいか息詰まるような胸苦しさ、倦怠感がまとわりついていたが、どうにか揺れる視界を定める程度のことはできた。
 辺りはすっかり夜も更けて、墨を塗ったように黒く沈んでいた。車は砂利の上に停まり、前照灯の明かりが前方の風景を淡く切り取っている。光の輪に浮かぶのは古びた平屋の建物だった──流木の表面を平らに削って作ったような看板に、民宿苫屋という文字が彫り込まれている。本当に営業しているのかどうかも怪しいような古めかしさで、木造の外壁には所々黒ずんだ染みが浮かんでいるのが見えた。硝子窓は薄汚れたカーテンで締め切られ、到底旅人を受け入れる用意が整っているようには思えない──遠目に見ただけなので全体の印象はぼんやりとしていて掴みにくいのだが、どことなく生理的な嫌悪感を掻き立てる造りの建物だった。
 運転席に峰岸先輩の姿はなく、助手席のドアから少し離れた場所に呆れた表情の橋場が、ボンネットの辺りに困惑顔の久里が立っていた。
「びっくりした……普通あれだけ居眠りしてたらさ、あんな急に起き上がれないでしょ」
「──起き上がる──って、え? 何だ? ……俺、居眠りしてたか?」
「……うーわ、それマジで言ってたら笑えないんですけど」
 あれだけ先輩に運転させといて──と片方の眉を上げて言い放ち、橋場は荷台の方へと歩いて行った。代わって、久里が苦笑を浮かべながらゆっくりと近寄ってくる。
「……紘一郎君、すっごい気持ちよさそうに寝てたよ。二時間ぐらい。寝言で、鍵子ちゃんの名前呼んでたし」
「──俺が? 鍵子って……うわ、すげえ恥ずかしいじゃん……!」
 悔恨に呻いたところで、今更格好が付くわけでもない。くすくすと笑いを噛み殺す久里から視線を外すと、ちょうど四人分の荷物を下ろし終えた橋場と目が合った。こちらはこちらで、何か言いたげなにやにや笑いを浮かべている。どうやら寝言で鍵子の名前を呼んだというのは本当らしい──後部座席の二人にまで聞こえたのだから、相当はっきり発音したのだろう。
 恋人らしい振る舞いと言えばそれまでなのだが、妙な気恥ずかしさを覚えるのも確かだ。
 照れ隠しもあって、そそくさとシートベルトを外して車外に出る。砂利を踏む音は妙に軽い響きで夜に鳴り、辺り一帯を取り囲む森の葉擦れと混じって消えた。
 どうやら宿は山の中腹辺りに位置しているらしく、森の木々はさながら檻のように生い茂り、古めかしい木造家屋を社会から断絶させていた。揺れ、蠢く枝葉は互いに重なり合い視界を遮ることで森の奥を隠し、山肌の傾斜に添って微かに遠い街の明かりが漏れるのを覗かせるばかりだった──夜空は黒々とした雲に覆われ星の輝きも見えず、月明かりさえほんの微か、糸のように垂れているのが見えるだけだ。延々上り下りを続けた山道と繋がるはずの舗装された道路はどこにも見えず、軽い砂利を敷いただけの簡素な駐車場がぽつんと取り残されるように広がっている。明るい場所で見れば印象も変わるのかもしれないが、夜も更けた今になっては、汚らしい檻に閉じ込められたような気にさせられた。
 俺が必死に夜目を凝らしている間に、橋場は手早く全員分の荷物をまとめ、久里と手分けして運び出そうとしていた。流石に女性二人に重い荷物を持たせるわけにはいかず、観察を一端中断して二人の下へと駆け寄る。足裏にまとわりつく砂利の感触を奇妙な程不快に思いながら、俺は自分と先輩の分の荷物を抱え、談笑しながら古びた宿に向かう二人の後について歩き出した。時折話題を振ってはくれるものの、どうにも頭がぼうっとして意識が定まらず、つい無気力な返事をしてしまう──寝起きで呆けているのだろうと勘違いしてくれたのか、二人はすぐに俺へと話の矛先を向けて来なくなった。
 実際のところ、俺は内心に怯えを抱え込んでいたのだ。祖母の葬式に参列するため帰郷したあの村と同じ、肌に纏わりつくような不快感に苛まれ、まともにものを考えることもできないような有様だった。宿に近付くにつれて、その感は一層強くなっていく──玄関部は引き戸になっていて、黄ばんだカーテンが来訪者を拒絶するように締め切られている。車外に出て、山中だから気温が低いのだろうと思っていたのだけど、宿の周囲は一層気温が低いように感じられた。あるいは玄関部の上に二階部分が張り出し、深い影を落としているからなのかもしれない。気後れする俺を余所に、橋場達は軋む引き戸を開け放ち、カーテンを潜って民宿の中へと足を踏み入れていた。俺も遅れて続く──同時に背筋がわけもなく怖気立ち、濃密な黴(かび)臭さには不快を通り越して忌避的な感情すら湧いた。暗い廊下の奥から峰岸先輩がスリッパの音を引き連れ現れなければ、二人を残して車中泊を決め込んでいたかもしれない。
「よう──良かったな、みんな。部屋、貸してくれるってさ。食事はもう用意できないけど、それでいいならって」
「あー、あたしは全然オッケ。ユッコも別に構わないでしょ?」
「ん……うん、私も、いいよ。紘一郎君は──どうする?」
 どうする──と尋ねられ、三人の視線が俺に注がれる。
 どうするもこうするも、こんな夜更けに突然押しかけて、こっちは客なんだから食事の用意ぐらいしろと喚き立てるわけにもいかないだろう。長く居眠りをしていたせいもあってか、或いはこの宿の湿っぽい独特の臭気のせいなのか、全く食欲も湧いてこない。
「俺も別に構わないですよ。腹減ってないですし。荷物に一応食えるものとか入ってますしね」
「そうか? 良かったよ、そう言ってくれて。なあ?」
「うん。良かったね、ユッコ」
「うん……良かった。安心した」
 良かった──と、重なる声が暗がりの中に響く。何が良かったのかは知らないが、正直な話知りたいとも思わなかった。とにかくこの体に染みついた倦怠感さえ拭えれば、他に一切文句はない。長く車に揺られ過ぎたせいだろうか、俺はとにかく疲弊しきっていたのだ。
 靴を脱ぎ、備え付けのスリッパに履き替えると、古い木板を敷き詰めた廊下を先輩の後について歩いて行く。入り口脇に宿の受付があるのが見えたが、奥の事務室にすら人の気配は感じられなかった──峰岸先輩が部屋を借り受けた後、非常識な時間帯の来客に腹を立て、職員専用の部屋か何かに引っ込んでしまったのかもしれない。俺達以外に宿泊客の姿は見受けられず、靴箱にも四人分の靴しか並んではいなかった。傍目に見ても営業しているかどうか疑わしいような宿だから、いつも客などいないのかもしれない──偶然今日だけ無人だったというわけでもないだろう。