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現代異聞・第二夜『長い遺体』

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 夜がにじり寄ってくる。
 じりじりと、距離を測るけだもののように慎重に、しかし傲慢な殺意を湛えてやって来る。
 足が竦み一歩も動くことができない。全身の筋肉が麻痺したかのような有様で、唾を飲み込むのも一苦労だった。込み上げる恐怖は馬鹿馬鹿しい程に巨大で、こうして立っているだけでも心臓が鼓動を止めてしまいそうになる。
 震える。後じさることもできない。
 波の隙間に、ぶよぶよと膨らんだ何かが見えた。
 水気を多く含んだそれは、少しずつ海から這い出てくる。
 海面からではなく──海そのものから、這い寄ってくる。
 轟々と、うねうねと、蠢く死の塊こそが海だ。
 爛れた水面は幾つもの亀裂を走らせ、ひび割れた波から無数の膨らみが生えてくる。
 醜い肌の色。白っぽく、まるで血の気を感じさせない質感。
 あれは──手だ。
 海から、
 無数の手が生えている。
 砂浜が汚染されていく。まず最初に月明かりに照らされた手は、少しずつ正しい輪郭を結び始めた。ぶよぶよと不愉快に膨張した腕が砂を掻き、肩の付け根が全身を引き寄せ、海草じみた髪が散らばり、腐敗して肉の削げた背中が見えて、ガスの膨満した下肢が引きずり出される。
 死体だった。
 目にした瞬間に理解できる。
 これは死体だ。
 恐怖の──不幸の塊だ。
 海草の隙間から血走った眼球が覗く。憎々しげに俺を睨み、視線だけで人を殺そうとするかのように瞬きもしない。
 ──わかってるよ。
 理性が吹き飛びそうになるのを懸命に耐えて、俺は目を逸らすことすら許されないままに独白した──しようとした。声になっていたかどうか、正直なところ自信はない。こんなに渇ききった喉が、声らしき声を出せるとは到底信じられなかった。
 べちゃり──べちゃり、と。
 水音が増えていく。
 異常なまでに膨張した死体を先頭に、次々と新たな死体が現れては砂浜へと打ち上げられていく。
 ──紘ちゃんよ、
 ──見たんだら仕方ねえ、
 ──おめは仕方ねんだよ、
 ──ゴンケを見たなぁみぃんな、
 ──こんなになっちまうんだよ。
 わかってる──今更言われなくたってわかってる。
 だから、黙って欲しかった。
 空気漏れしたポンプのような声で喋らないで欲しかった。
 憎いわけじゃない。
 嫌いなわけじゃない。
 ただ見捨てて欲しかっただけなのに。
 どうして助けたりしたんだろう。 
 どうして今更、手を伸ばして来るんだろう。
 わかってる、
 死ぬ程憎いのはわかってるから、だから、

「──何も言わないでくれよ──婆ちゃん」

 膨張した死体となった蔓引トミの、
 祖母の背後から、無数の死体が立ち上がる。
 あれは笹川だ。取り巻きもいる。
 知らない顔も沢山いる。知らない死体の方が多かった。
 きっと昔から──こんなふうに、続いてきたのだ。
 海ゴンケの日に引きずり込まれて、
 自らもまた引きずり込む役目を受け入れて、
 こんなになるまで増えてしまったのだ。
 茅部村の住人達は──こんなにも沢山、誰を助けることもなく、死に囲まれて生きてきたのだ。
 ──おめのせいでよ、
 ──わっがはこんなざまだよ。
 ──おめがあれを見なきゃよ、
 ──おめさえじっとしてりゃあよ──。
 ああ──わかってるよ。
 今更だけどわかったんだよ。
 ──婆ちゃん。
 きっと──俺のせいで、責められたのだ。
 俺が長い死体を見てしまったから、何で家に入れておかなかった、この神事の間は絶対家から出すなと言われたろうと、祖父から──親類縁者から、村人達から、責められたのだ。誰も祖母の言い分になど耳を貸さず、一方的に責め立てたのだろう。
 だから──祖母は、俺の身代わりになった。
 身代わりにされた。
 あのお堂に行かされて、長い死体を──ゴンケを見るように言われたのだ。
 お経ばかり唱えていた祖母。
 当たり前の話だ──祖母は毎日、来る日も来る日も、自分だけ──ゴンケ除けをしていたのだ。
 倦み疲れた婆ちゃんは、だから俺にあのお守りを送ったのだ。
 ただの悪夢が、本物の悪夢になるように。
 婆ちゃんの味わった苦痛を百分の一でも味わって死ねるように。
 でも俺は助かってしまった。俺を助けてくれる人間がいるなんて、婆ちゃんには想像もできなかったんだろう。少なくとも祖父母が知る限り、俺の周囲に知人友人の類など誰一人としていないはずだった。実際俺にとって、まともな知り合いと呼べるのは恋人の鍵子ぐらいのものだ。後は会えば挨拶し会話もするけれど、連絡先すら知らない程度の人付き合いを徹底してきた。
 たった一人で良い。
 多くは望まない。
 俺なりの罪滅ぼしのつもりだった。見てはいけないもの、やってはいけないことに触れてしまった人間の、せめてもの償いのつもりだったのだ。
 それがまさか騙し討ちのような形になるだなんて、俺自身考えてもいなかった。
「でもさ──助けようとしなかったんなら、そいつは同罪なんだよ、きっと」
 独白は鈍重な闇に圧殺される。気が付けば足下まで黒い波が押し寄せ、靴を濡らしていた。染み込む生温さは不快極まりなく、洗われた砂は粘土のように固く足を捕らえる。
 身動ぎすらできないでいる内に、死体は次々と数を増やし、こちらへと迫ってきていた。漂う腐臭は嗅覚を麻痺させ、脳の奥に鋭い針のような痛みを抱かせる。酩酊したように視界は定まらない。海が──夜空が、伸び上がる大きな影が、見えた気がした。
 互いに絡み合う死体が──長々と伸びた死体が、今にも弾けてしまいそうな程に膨張した腕を差し出してくる。先頭は婆ちゃんだ。俺の足首を掴んでいるのは婆ちゃんだ。ずるずると海に向かい引きずり込まれていく。背中から砂浜に倒れ込み、飛沫が散って全身を濡らす。爪を立てせめてもの抵抗を示すが、砂は幾ばくかの摩擦すら拒むように滑るばかりだった。
 足首が、膝が、黒々と大口を開けた海に呑み込まれていく。もう俺の体は輪郭が曖昧になっていた。どこからが人間で、どこからが夜なのかわからない。混乱する脳が出す指令すら、今の俺にはもう理解が難しくなっていた。砂を掴む。足をばたばたと跳ねさせて足掻く。だが足首を掴む力はまるで万力のように骨まで締め上げ、到底老婆のものとは思えないような剛力だった。
 腰まで水に浸かる。老婆が笑う。その背後で死体が諸々と笑う。腐れ果てた皮膚が崩れ落ち、肉と血管、脂肪と骨が覗く顔面で笑う。
 嬉しいのだろうか──楽しいのだろうか。禁を犯した俺が今度こそ水底に沈んでいくのが、そんなにも楽しくてたまらないのだろうか。
 人の死を──笑いながら望めるというのか。
 ──だったら、
 それはもう、人間なんかじゃなくて、
 どんな満足も幸せも無縁な──ただの化け物じゃないのか。
 俺は叫んだ。
 死にたくない、助けてくれとみっともなく取り乱し、涙と鼻水、涎を垂らしながら助けを乞うた。
 死の間際の醜態を見て、長い死体達が一層可笑しそうに笑う。
 村の明かりはもう見えない。誰かが助けに来てくれる気配はない。あの明かりが俺に届くことはないのだ──山の中のお堂を前に執り行われているであろう神事が、俺を助けてくれることはないのだ。