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現代異聞・第二夜『長い遺体』

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 無数の手に引きずり込まれて、ぬるぬるとした海の中で溺れ死ぬ。
 もう胸まで水に浸かっている。海草がへばりつき、幾重に死体の腕が絡みついてくる。
 老婆の裂けるような笑みが間近に迫る──醜く歪んだ喜悦を窺わせる、暗い影を含む笑顔。
 俺がもうじき死ぬことを確信しているのだ──確信して、切望しているのだ。人が死ぬことを心の底から願っているものの表情だった。
 恐怖ではなく嫌悪から吐き気が込み上げる。
 俺もこんな奴らの一部になり下がってしまうのか。
 夜の海に呑み込まれて、無関係な人間を次々と引きずり込んでいくだけの化け物になってしまうのか。
 嫌だ。
 嫌だ嫌だ嫌だ。
 どんなに激しく暴れても、何十何百という死体の列に敵うわけがない。
 頭で理解できていても、体は勝手な反応を返し続ける。
 腕を振り回し、靴裏で老婆の顔を蹴り、砂浜に爪を立て、声にならない声で叫ぶ。
 ──嫌だ、
 ──俺は、
 ──俺はこんなものになりたくない──。
 沈んでいく──沈み、溶けていく。
 巨大な夜に身も心も侵されていく──明かりは見えない──村の連中が助けに来てくれることもない──神事はきっと何の意味もないのだ──切り立った岩場が夜空を削っている──頬まで塩水に浸かり唇が塩辛さを訴える──明かりが──老婆がにやにやと嫌らしく笑って──嫌だ、俺はこんなものに──助けを求めたのに──明かりが──

 ──明かりが、見えた。

 太い光条の束が、無惨に夜を引き裂く。絡み合い、互いにしがみつき合って、まるでフジツボの集合体のようだった死体の群がおののく。おお、と風の唸りにも似た声が漏れ、俺の体を引っ張る力が急激に弱まった。疲れ切っていた俺は、それでも何とか立ち上がり、砂浜沿いの道路目指して走る。光はその道路から放たれていた──道路に停車する、十台近く並んだバスから放たれていた。
 先頭の一台が扉を開ける。
 妙に軽い足音と共に、一人の女がライトを遮るような格好で現れて、

「──ようやくバイト先と連絡が繋がりまして。遅くなりました──紘一郎さん」

「──よう、こ」
 
 震える声で、恋人の名前を──あだ名ではない、本当の名前を呼ぶ。
 ふにゃふにゃとしたいつもの笑顔を見た瞬間、俺は全ての力を使い果たしてしまった。膝から一気に力が抜け、体を支えることができずに尻餅をつく。海水でずぶ濡れになった衣服が肌にはりつき、無様に泣き叫んだせいでひどい顔になっているはずだった。鍵子は脱力した俺をちらりと一瞥し、
「──それでいいのですよ」
 と──小さく、掠れるような声で囁いた。
「それでいいんですよ、紘一郎さん。助けることも、助かろうとすることも、どちらも大切なのです。それが人間の満足なのです──みんなが何事もなく暮らしていくことが、人間生活最大の幸福なのです。誰一人大過なく、誰一人欠けることない営みこそが、人間を満足させるのです」
「──どういう、ことだよ」
「あの長く長く伸びた死者の列は、その満足を、その幸せを手放しているのですよ」
 がたん、と──。
 停車したバスのドアが開き、次々と乗客達が降りてくる。老若男女とりとめなく、中には赤ん坊を抱いた主婦らしき女性の姿まであった。皆一様に目が虚ろで生気を感じさせず、のろのろとした足取りで道路を踏み越え、砂浜へと近付いていく。止めろ──と叫ぼうとしたが、既に声は枯れ果てていた。
 砂浜に行ったら、
 海に近付いたら、
 海ゴンケの日なのに──。
 訴えたい言葉は無数に浮かぶ。しかし凍りついた喉が震えることはなく、死にかけの魚のようにぱくぱくと口を動かすだけに終わった。手を差し伸べることもできずに、ただ事の成り行きを見守る。
 百人以上はいるのだろうか。
 虚ろな人間達の最後尾に立ち、バスのライトを背中に受けて、鍵子が頼りない笑顔のまま立ち尽くす。俺を海中に引きずり込もうとしたときとは打って変わって、死者達には戸惑い──躊躇いが生まれているように見える。鍵子を恐れているわけではないようだった。鍵子が連れてきた人間達を見て、狼狽し、混乱している。
 鍵子がゆっくりと一歩を踏み出し、白いワンピースの裾を翻して、
「──意味もなく殺されたから、意味もなく恨むなんて──馬鹿らしい」
 咎める口調ではなかった。
 死を告げる、硬いだけの声だ。
 更正の期待など微塵もなく、後悔させる気力すら萎えさせる、そういった類の声だった。
「──そんなに殺したいなら──関係のある人を、殺したらいいじゃないですか」
 人の列が動く。
 死者の列が下がる。
 鍵子は背後から光を受け、怪鳥のような影を伸ばす。
 その影を恐れるように、少しずつ死者が海へと退いていく──いや、退こうとしていくが、それができずに混乱している。
「海ゴンケの日に、海に近付いた者を殺すというのなら──今大挙して押し寄せる人間達を殺さなければ、その役目を果たせないと言うことになってしまう。だから、沢山連れてきました──

 ──あなた達の、家族と子々孫々、末代まで全員」

 死者が──慟哭した。
 空が裂けるような大音声。悲痛な泣き声、哀願とも懇願ともつかぬ声、嗚咽じみた声が互いに混じり合い、海岸を揺らしている。
 村の明かりは変わらず絶えたまま、誰が様子を見に来る気配もない。中には家中空になった家庭もあるのかもしれない──子々孫々末代までというのなら、茅部村の住人も多く含まれているはずだからだ。この村とは無関係に死んでいった人間もいるのだろう、見たこともない顔も多い。人間が多い──人形のような人間達は、まるで誰かにそうしろと命じられているかのように黙々と、瞳の焦点すら合わせないまま砂浜を突っ切り、海へと歩を進めていく。
 砂を蹴り、波を払って、近付いていく。
「ずっと昔に死んだ人は子孫を、つい最近死んだ人はその家族を──連れてきました。だって不公平じゃないですか。何も知らない人が死ぬなんて──知っていて助けようとした人が死ぬなんて、不公平じゃないですか。あなた達にも失うものがあっていいはずじゃないですか。
 ──だから、親しい人を、好きな人を、幸せになって欲しかった人を、殺して下さい」
 虚無が満ちていく。
 夜空がぼろぼろと裂けていく。闇が剥げ落ち、もっと深い場所から楽の音が聞こえる──死者の怨嗟、慈悲に縋る声、冷徹な無数の足音。人々は皆無感動に膝まで水に浸かり、それでもまだ沖を目指し歩き続ける。死体の群は泣き叫び、荒れ狂いながらも自らの手を止められないようだった。
 どれだけ拒もうとしても手を伸ばし、縋りつき、人々の体にしがみついて、海に沈んで生者を引きずり込む化け物へと変えようとしている。
 ──否めないのか。
 きっと──彼らはそういう装置のようなもので、自分の意思など関係ないのだ。無関係な人間ならばまだ笑っていられたものを──家族を、子孫を殺せと言われて、初めて自分達の罪に気付いたのだ。与えられた罰の過酷さに思い至ったのだ。
 腕が伸びる。