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現代異聞・第二夜『長い遺体』

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■ 結 ■


目が覚めると、そこは居間だった。屋敷の一角、畳敷きの部屋に布団も敷かずに放置されていたらしい。全身の関節がくまなく痛みを訴え、凝り固まった筋肉は解すのも一苦労しそうだった。
 初夏の村は生臭く、暑苦しい。梅雨の時期特有のじめじめした肌触りの空気が、開け放たれた窓から容赦なく雪崩れ込んでくる。扇風機も冷房もない部屋には風鈴が一つ、所在なさげに吊り下げられ、ちりん──と澄んだ音色を響かせた。村の中心部が賑わっているようだ──祭りでも始まるのだろうかと投げ遣りに考えながら、俺はゆっくりと半身を引き起こした。
 快晴──なのだろう。焼けつくような陽射しに照らされ、慌てて右手をかざし陽光を遮る。熱気と湿気は最高潮に達し、物干しに吊された洗濯物も心なしか疲れ、項垂れているように見えた。
 村で起きた騒ぎに関わる気にはなれない。曖昧な記憶が断片ごとに蘇っては消えていき、現実感の希薄さに拍車をかける。夢の中にいるような錯覚すら覚えながら、俺はのろのろと立ち上がり、人の姿を探して屋敷の中を歩き始めた。廊下を抜けて台所、仏間と通り過ぎ、客室、浴室まで確かめるが、人の気配はどこにもない。仏壇は閉ざされたままで、飾られているはずの祖母の遺影を見ることもできなかった。記憶の中の祖母は既に人間とは別のものに成り果ててしまっている──俺が知っている、俺を育ててくれた祖母は、既に写真の中にしかいないのだ。
 じいじいと虫がやかましく歌っている。庭先の丸く刈り込まれた盆栽の影から、蛙が一匹飛び出してきた。鳴くでもなく、ただ丸い眼球を忙しなく動かして視線を散らしている。屋敷の中を見ているわけでもないのだろうが──あるいはそうだったとしても不思議ではないが──蛙は一分か二分、その場にじっと蹲ったまま身動ぎ一つしなかった。
 もう何代も前から蔓引家の住居として使われてきた屋敷は、内装も古ぼけている。黒ずんだ柱、奇妙な染みの残る壁からは郷愁が全て染み出し、代わりに薄気味悪い歳月の猛威だけが塗り込められていた。妙に狭苦しいくせに天井が高い造りは居心地が悪く、圧迫感の原因は設計の悪さにあるのではないかと考えてしまう。微かに鼻先を擽る抹香臭さは清浄さの欠片もなく、むしろこの上なく不浄なものであるかのような臭気に変貌していた。
 果たして、線香はこんな香りだったろうか。
 こんな──水死体に詰め込まれたガスのような、熱感すら伴う吐き気をもたらすものだったのか。
 ふらつく足取りは深い疲労から来るものだろう。わかっていたところで、急に疲れがとれるわけでもない。壁に手を突き、柱に縋るようにして歩を進め、屋敷をくまなく探し回る。祖父は出かけてしまったのか、何処を探しても見つからなかった。葬式が終わった直後だというのに親戚の一人寄りつく気配すらなく、屋敷はしん──と静まり返っている。
 ──誰もいないのか?
 声が出ない。喉が枯れている。
 ──誰か、
 ──誰かいないのか。
 覆い被さるような悪寒は、この屋敷に来た当初よりも重苦しいものになっていた。絶え間ない吐き気と揺れる視界、鉛のような頭痛を覚え、ずるずると崩れ落ちて廊下に座り込む。
 ──駄目だ。
 この家には──いられない。
 荷物を取りに戻る余裕もなく、俺は四つん這いの姿勢で玄関へと向かった。肘を擦り、膝を立てては廊下を蹴る。摩擦が火傷しそうな痛みを訴えるが、今更そんなものに悩まされている余裕すらない。ずるずると死体のように足掻き、先程まで寝かされていた居間を通り過ぎて、玄関に辿り着き──
「──鍵子」
「──おはようございます」
 鍵子は──いつもと変わらない笑顔で、俺を迎えた。
 玄関に腰を下ろし、三和土を安っぽいサンダルで踏みながら、鍵子は這いずる俺の姿を不思議そうな表情で一瞥する。粘つくような重苦しさを少しも感じていないのか、あるいは感じたところでまるで動じないのか、平生とまるで変わらぬ様子に、俺は安心と苛立ちを同時に覚えた。
「しかし紘一郎さんは本当、どこでもよく寝る方ですねえ。道路の上で眠るなんて、浮浪者でもなかなかできたものじゃありませんよ。布団もいらないかなぁって思いましたけど、本当にいらなかったみたいですね」
 畳の上に人を転がしたのはこいつらしい。
 しかし海岸で気を失い倒れた俺を、この屋敷まで運んだのもまたこいつなのだ。礼を言う義理はあれど、怒る権利が俺にはない。口の中でもごもごと悪かったよ──と告げて、俺は何とか鍵子の側まで這い出した。まるで芋虫を見下ろすかのような視線で俺から僅かに距離をとりつつ、鍵子がゆっくりと口を開く。
「お加減がよろしいようで、何よりです」
「おまえ本当は俺のこと嫌いだろ?」
「大好きですよ。当然ではないですか」
 ──好きな人相手にしか、こんな口の利き方はできません。
 悠然と言い放たれる。むしろ嫌いな人間に対してどんな口の利き方をしているのか、一度でいいから聞いてみたいものだった。
 とまれ、こうして掛け合いで遊んでいるだけの余力すら、今の俺からは失われつつある。何とか姿勢を直して座り込み、靴に足を滑り込ませると、靴箱にしがみつく格好で立ち上がった。よろめく体を叱咤し、財布がポケットに入っていることだけ確認すると、呑気に座ったままの鍵子を置いて歩き出す。僅かに遅れる形でついて来た鍵子に振り返ってみせることすらなく、俺は村を貫く国道目指して歩き続けた。屋敷から離れるにつれ、腹の奥に沈殿していた不快感が溶けていくのを実感する。
 ──来るべきじゃなかったんだ。
 胸中で自分を罵り、前へ前へと足を投げ出す。
 ──葬式だからって……来ちゃいけなかったんだ。
 俺はもう、この村にとっては異物なのだ。
 お堂の中を覗いてしまったあの日から、俺は共同体にとっての異端だった。
 弾かれていたし、遠ざけられていた。
 その境遇に甘え続けてきたというのに──何を今更、戻ってきたのだ。
 鍵子のさくさくと妙に軽い足音が聞こえる。数歩後ろをついて来ているようだった。多分今、鍵子は笑っているのだろう。俺のことも、この村のことも、何もかもを笑っている。幸せになれない、満足できない者達を嘲笑っているのだ。
 ──紘ちゃんよ、
 ──仕方ねんだよ、
 ──あんななっちまって、誰が葬式あげてくれんだ──。
 脳裏に祖父の声が響く。砂浜の方に人だかりが見える──目の前の道路をパトカーが駆け抜け、けたたましいサイレンの音だけをその場に残していった。村の住人達は普通に海に近付き、何か作業をしている。もう海ゴンケは終わったのだろうか──神事が終わればある程度規律が緩くなるけれど、にしてもあの人数は異常だった。
「……何だ、ありゃ」

「──不幸になった人達が打ち上げられたのですよ」

 耳元に──冷たく、濡れた吐息がこぼれた。
 いつの間にそんな近くまで移動していたのか、鍵子は俺の背中に貼りついて喋っている。喋っているのは鍵子のはずだった──鉛のように粘つく、海風のような声でさえなければ、俺はすぐにでも振り返って恋人の顔を覗き込んでいただろう。
 振り返ることができない──恐ろしくてたまらない。