キスツス・アルビドゥス
時に言葉足らずな彼の話を理解するために私は何度も言葉を貰わなければならなかった。
もどかしい筈のその流れも、私と彼の間では有意義で楽しいひとときだったのだ。
「…時間?」
「私はイーノックに名を呼んで欲しいんだ…」
「どう言う事だろうか?私には良く解らない。説明してくれ」
「もうじき還らなければならないという事だよ、イーノック。私は期限付きの肉体を貰ったに過ぎない」
「それは、まさか…貴方は、死ぬと言う事か?」
「いいや、死ぬんじゃないよ、還るだけさ。私の居るべき場所に。まあ、同じような事だけれど」
彼が居なくなる。
その言葉は私に、身体中の血液を止めてしまうんじゃないかと言うほどの衝撃を与えた。
熱い珈琲が入ったカップを持つ手は力なくその熱を机に戻し、冷えたリビングにこつりと悲しい音を響かせている。
「解らない。貴方が私をイーノックだと云うのなら、私は貴方の名を呼ぶから。どうか名を教えてくれ」
「教えては意味が無いんだ。思い出してもらわなければ。それが条件で、彼との約束だったからね」
「それは私ではいけないのだろうか」
「君じゃなければいけないんだよイーノック、本当に、人の話を聞かないな」
くすくすと笑って、彼は願うだけさと言った。
「君が思い出しても、そうじゃなくても、どちらにしろいずれは還らなければならないのだけれどね」
残念そうな、それでいて穏やかな表情で彼は祈るように眼を伏せた。
私が、彼の為に、もしくは私の為に、思い出さなければならない事がある。
彼は今までどんな思いで私に昔話を聞かせていたのか、もうすぐ時間だと打ち明けるまでの葛藤が、傍目からでも解る好意を目の当たりにしていながら、それが如何ほどの悲しみだったかと考えて私は目頭が熱くなった。
膝の上で握り締めた拳を見下ろして、私はあまりにも愚かで遅すぎる後悔を痛感していた。
好きなのだ。
彼の言う過去も未来も関係なく、私は私として彼に惹かれ、いつの間にか他の何者にも変えられない程彼を好きになっていた。
気付く事を怖れていたのだ。
最後の宣告を受けて今更、自分の愚かさや弱さを自覚する事しかできない事にどうしようもなく腹が立った。
思い出せない私に向けられる事の無い愛情を“イーノック”は遠い過去から延々と受けている。
私が彼の言う“イーノック”ならば、私は惜しみない愛情を彼から授かり、有らん限りの幸福を差し出す事が出来たのに。
どうして私は彼の名を知らないのかと、私はその夜、久方振りに枕を涙で濡らした。
ついに彼が言う最後の日だ。
還ると言うその晩、空は別れを惜しむように、私の心の内を代弁するかのように、しとしと泣いていた。
全身を雨に打たれる彼は最後、諦めたように私をエリックと呼んだ。
「ありがとうエリック、私にとってはわずかな時間だったけれど、本当に楽しかったよ」
肩を落として力なく笑う彼に何か言葉をかけようと口を開きかけて、ふと何かが足りないと思った。
ふやけた夢の断片に見た男が持っていたものを、彼が持っていない事に何故か違和感を覚えたのだ。
雨の日に持っていてなんらおかしいものではないのに、今になって私は彼に出逢ってから見なくなった夢の一部一部をスローに思い出していた。
「あ…」
傘だ。
彼の手に傘が足りない。
「…る、」
夢の中で追い縋った背中と、彼の優しい笑みがリンクする。
「、る…、ぁ…っ…る…ル、し…ッ!」
夢のシーンは断片的にいくつもよぎるのに何故か彼の名前だけがどうしても音にならない。
もどかしい、もどかしい、悲しい、行かないで、貴方の名前を呼びたいのに。
泣きそうな顔で微笑んだ彼はまるで花が散っていくようにはらはらと消えていく。
私はぼろぼろと涙を落としながら必死に手を伸ばしていた。
ぬくもりの無い彼の散りかかった手を握り、歪む視界を恨みながら私は叫んでいる。
「待って、待って…!貴方は…貴方の、名前ッ!」
「良いんだイーノック、いや、エリック。君に再び逢えて、話をして、触れ合えた。それだけで良いんだ」
「思い出すから!お願いだからっ!行かないでくれ!」
「ありがとうエリック」
「…ま、待って!行かないで…!」
「愛しているよ、イーノック…」
私は彼の名も知らず、呼び止める術も持たないまま、冷たい雨が降りしきる空間で、彼がひっそりと消えたその場所を抱き締めるようにうずくまった。
身を打つ雨などお構いなしに、子どものように泣きじゃくる私の腕の中にはひと株の小さな花がまるで彼の欠片とでも言うようにぽつりと遺されている。
花が好きだと私が言った事を覚えていたのだろうか。
涙で滲んだ視界に白い花弁が映った。
その花が持つ悲しい言葉を思い出して、私の涙は再び雨のように溢れるのだ。
アスファルトを打ち付ける雨音にかき消されて、私の叫びは暗闇の中で見えなくなった。
守るように抱き抱えたキスツスの花だけが、私の張り裂けるような想いを聞いていた。
作品名:キスツス・アルビドゥス 作家名:autumn