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キスツス・アルビドゥス

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徐々に陽は短くなる。
其れにつられる様に空気はひんやりと頬を刺すようになった。
夜がすぐそこまで迫ってきて、私を隠してしまう。
地上とリンクする天界の空気に懐かしさを募らせて空を眺めるのが日課になった私を見て彼は、月の色をしているな、と言った。
私の好きな色だと。
ほんの少し高い位置から優しく私の頬を撫ぜながら。
彼はそう、言ったのだ。
其れから私は髪を切らなくなった。
我ながら単純だとは思うけれど。
今や背中部分まで伸びきった蜂蜜色の髪は、触れてくれる人もおらずにただ歩みに合わせて揺れるのみだ。
夕焼けに照らされた私の髪をひと房握って、そっと口付けて愛していると言って欲しい。
彼は私を置いて、遠い地の底でたった一人。
取り残された様な切なさだけを抱えた私は闇色のあなたの名を呼ぼうとしてふわりと夢から覚めた。
遮られたその名に愛おしさだけが募っていく。



夕焼けに染まる帰路をゆったりと歩いていた。
白い服を着た私を嫌悪するかのように陽は足早に沈んでいく。
夕飯は後にしよう。
それより先に湯を浴びたかった。
ここ暫く、毎日のように見る夢のせいで体力的に限界が来ている。
特に悪夢である訳ではない。
寧ろ幸せな、陽だまりのような夢なのに、それはとてつもない程胸を締め付けるのだ。
夢の最後で名を呼べない人物へ必死に手を伸ばした所でいつも目が覚めてしまう。
枕を涙で濡らす、という表現を実に毎日体験している。
ともすれば今すぐにでも歩みを止めてしまう程度には、心身ともに疲弊していた。
仕事を終え、重い書類を大事に抱えて、やっと辿りついたマンションの玄関先に、先ほど沈んだ太陽を追ってきたかのような闇色の男が立っていた。
その男は全身真っ黒な服装に身を包んだ近寄りがたい風貌であるにもかかわらず神秘的なまでに美しかった。
例えるならば、昔見た文献の中の幸福を司る天使の様な、もしくは人を甘美な誘惑で陥れる悪魔の様な。
視線を合わせたまま彼は動かず、じっと私の言葉を待っている。

「…どちらさまでしょうか?」

男は答えなかった。
悲しみをあらわにしているのか、それとも怒りにうち奮えているのか。
なんとも掴めない表情のまま、彼は私を見つめて嗚咽も漏らさずはらはらと泣いていた。

「イーノック」

男が透き通るような低音で発した言葉は聞き慣れない発音だった。
それは名だろうか。
いや、名であるはずだ。
私は何故かその名を深い意識の底で知っていたけれど。

「…あの、人違いじゃないでしょうか?私はエリック。少し似ていますがイーノックと言う名ではありません」
「ああ、そうか…そうだったな…」

男は酷く落胆したようにまたさめざめと泣き濡れた。
燃えるように紅い瞳から流れる雫は他と同じように透明だったけれど、止まることなく降り続けているそれは今まで見た涙のどれよりも美しいと思った。

「…あの、そんなに気を落とさないでください。人を探しているのなら手伝います…」
「いいや、君を探していたんだ」
「私を?…申し上げにくいのですが、私は貴方を知りません。もし知っていたとして、貴方の様な美しい方を覚えていない筈がありません」
「ふふふ、君は昔から馬鹿正直だな」

男は涙を拭う事もせず、ただただつらそうな笑みで私を古くから知っているかのように言葉を漏らした。
何故かそれを失礼だとも不愉快だとも思わず、どこか懐かしささえ覚えている自分が不思議でならない。
困惑を隠せずにいる私を尻目に彼は言葉を続けた。

「君が覚えていない事は解って居たさ」

ただそれがこれ程までにつらいとは思わなくてね、と少し高い位置にある明星のように美しい瞳は彷徨う事無く一心に私を見つめている。

「話を聞いてくれるだけで良いんだ、明日も、君を此処で待っていても良いだろうか」
「明日も、ですか」
「ああ、いつまでも待っているから」
「…貴方の涙が、それで止まるのならば」
「ありがとうイーノック」
「…………」

真摯な眼差しに酔ってしまったのかもしれない。
息を呑むほどの美声に揺るがされたのかもしれない。
何よりも、痛みを耐えたような切ない頬笑みに鷲掴みされたのだ。
優しく頬を撫ぜられた私に彼の頼みを断る事など出来る筈もなかった。



彼は、私をイーノックと呼んだ。
確かに綴りは似てはいるけれど、私の名は父が大きな願いを込めて付けてくれた英雄の名で、何度違うと言っても彼が呼び名を変える事は無かった。
其れから彼は毎日のように私のもとを訪れては私の知り得ない話をしている。
彼の話す内容はイーノックと言う人物の話が大半を占めていたように思う。
彼はまるでお伽噺や神話を聞かせるように語りかけてくれているのみで、それは時に理解しがたいような内容ではあったけれど、私はとても楽しかったのだ。
私は漠然と、この人はおそらく普通の人では無いのだろうと思った。
だったら一体、何者なのかと問われれば答えに詰まるのだけれど。
彼が霊や神やはたまた妖怪の部類だったとしてもなんらおかしくは無いのだ。
それほど彼は神秘に満ち溢れていたし、代々敬虔なカトリック信者の家系である私はそれをすんなりと受け入れる事が出来た。

私の知らない事を聞けば何でも喜んで教えてくれる彼だったが、ただ一つ、彼は決して名を言わなかった。
思い出してくれと言うが、どんなに記憶を遡っても私は彼を知らない。
アルバムも、日記も、手帳も、名刺も、どんな小さなものでも総て、家中の記録を引っ繰り返しても彼に関連するものは一切出てこなかった。
何度名を聞いても上手くはぐらかされたり、思い出すまで好きに呼んでくれて構わないと言う。
ふと気付けば不思議な彼の名を知らぬまま、数ヶ月の時が過ぎていた。
月日とは無情だなと、いつか彼が言っていたけれど、その何気ない会話の一部分でさえ、彼の言葉にはきっと意味があったのだろう。



彼が家の前で私の還りを待っている事が日課になって半年。
私たちはすっかり親友のように、もしくはそれ以上に打ち解けていた。
相変わらず私は彼の名を知らないし、彼も私をイーノックと呼ぶけれど、そんな不思議な関係でさえ私にとって幸せと呼ぶに事足りている。
この緩やかで木漏れ日のような毎日がずっと続くのだと私はそう、何一つ疑うことなく思っていたのだ。

「イーノック、話をしよう」

その日は彼と出会った日のように夕暮れが闇を引き連れてせまり来ていた。
既に陽が落ちるのが速くなり、手をすり合わせながら帰路につく季節になって、どれだけの時間私を待っているか知れない彼の事を心配しない日は無い。
一緒に住んでいるわけではないのだ。
彼が何処に帰っているのかも知らない。
私は彼の事を何も知らないに等しい事を、いつも一人になると自覚せざるを得ないのだ。
暗い空に追われる様にして戻った私を彼はいつもとは違う神妙な面持ちで迎えた。
どうしたのかと聞く前に慣れた動作で彼を家に招き入れ、向かい合って座った私たちは陽の落ちきったリビングでしんと空気の音を聞いている。
私が淹れた熱めの珈琲を一口飲んで、一息ついた頃に彼はぽつりぽつりと話し始めた。

「もう時間なんだ」
作品名:キスツス・アルビドゥス 作家名:autumn